2010年11月9日火曜日

Sweet potato,potato,vegetable38

最近、体調の改善をするために、vegetableを中心とした食事を心がけている。夏の期間異常気象の影響でvegetableが高騰していた時期があり、lettuceが一玉300円以上もしていたが、今は大分落ち着いてきて、通常の価格帯となっている。
 さらには、円高の影響なのか、輸入ものの商品が安くなってきている。そのようなこともあって、最近こぞって食べているのが、avogadoである。米国にいるときcalifornia roll ということで、寿司sushiの中にうす緑色の不思議な食感のものが入っていて、驚いたことがあるが、醤油soy sauceにとてもあっていて、なかなかおいしいと思っていた。
 最近になって、肉や魚に変わって使える野菜はないだろうかと考えているうち、avogadoを思い出したわけである。今は単純に刺身醤油とわさびjapanese pepperを混ぜて、つけて食べている。栄養価としては肉や魚とは、異なるものではあるが、食感としては近いところがあるので、とりあえず満足している。

2010年11月4日木曜日

Sweet potato,potato,vegetable37

                                            干し椎茸(dried shiitake mushroom)
  
 南九州の山間部では、キノコmushroomの栽培がさかんである。特に椎茸shiitake mushroomはおそらく収穫量や知名度においても全国有数の産地といっても過言ではない。椎茸shiitake mushroomはそのまま焼いて食べるのもおいしいのであるが、普通一度日干しにして、水分を取ってしまい、料理の折りに水で戻して使用するのが一般的なようだ。
 一度日干しにしてしまうと、椎茸shiitake mushroomの中のvitamin Dが活性化して、多く摂取することができるというのが、栄養的には評価されている。生椎茸の場合より、乾燥させたほうが栄養価が高くなるというのは、少し不思議な気もするが、これが干し椎茸dried shiitake mushroomという保存方法の良いところである。
 水で戻された椎茸shiitake mushroomは、煮しめの材料として、最高の食材となる。出汁をよく吸収するし、椎茸shiitake mushroom自体もうまみ成分を含むので、他の食材にうまみを提供してくれる。自分は肉厚の椎茸shiitake mushroomが煮しめとなったものを好んで食べていた。

2010年11月2日火曜日

potato,sweet potato,vegetable 36

                                                    きんぴらごぼう(burdock
 
 地味な感じで食卓の脇役のようなきんぴらごぼうburdock は最近は食物繊維の宝庫として、自分は頻繁に食べている。自分が幼いころには、burdockといえば思い出すのは、お正月三ヶ日に御節料理の中に入ってたvinegarで味付けしたburdockの輪切りにしたものである。
 きんぴらごぼうの形で料理したもののほうが気軽に食べられるし、おいしいと思うが、何故か御節の定番はまさに牛蒡切りにしたものであった。
 burdockは根菜であるがため、体を冷やさないような効果があるようだし、食物繊維fiberが豊富であることで、体内の老廃物を排斥するのにおおいに役だっている。

2010年11月1日月曜日

Karukan manju made by yam and azuki-bean paste

            かるかん饅頭(karukan manju) made by yam and azuki-bean paste
                              
 南九州ならではの食材を使ったお菓子がある。その一つに、かるかん饅頭がある。かるかん饅頭は天然のyamrice powder、それに上質のsugarを使って作られた菓子である。特に鹿児島からの土産として、自分が幼いころはたのしみにしていた一品である。yamの独特の風味が魅力的であった。
 南九州は長い間島津家が領主としてこの地域を安定して統治していたこともあり、独特の文化が生まれてきた。菓子作りの分野でもその名人が薩摩のyamが特に上質なことに着目し、その風味を活かしたふっくらとしたかるかんを作り上げ、当時のお殿様に献上したとのことである。さすがに上品でありながらも、薩摩の風土を思い起こすようなローカル色の豊かな菓子である。

2010年10月31日日曜日

TOFU(豆腐)

                                                                     豆腐(tofu)

potato,sweet potato,vegetable 35

 近年soybeanの自給率は大幅に落ちていると聞く。大半のsoybeanを使った商品は海外からのsoybeanを加工して、消費に当てている。日本では庶民のオカズとして、tofu豆腐はかかせないものであるが、これらの多くは海外からの輸入したsoybeanを加工して作ったものとして市場に出回っている。時々見かける割高の値がついているtofuは、国内産soybean使用と但し書きがついている。国内産のsoybean大豆加工食品を見つけること自体が簡単ではないくらい、国内産は限られたものとなっている。
 自分が幼いころ、tofuは今のようにしっかりパックにつめられて店頭に並ぶものはなかった。八百屋にゆくと、そこには四角い防水加工を施した箱に水が貯めてあり、tofuが浮かんでいた。1丁いくらみたいな値札が箱についていて、必要に応じて、店の人がすくってくれる。水を張った手桶にtofuを入れて家に持ち帰るのであった。
 自分はtofuは好きな食べ物のひとつであるが、幼いころはスルッとしたのど越しの絹ごしが好みであったが、近年は木綿ごしを食べる機会が多い。これはおいしいと思われる、tofuは地元の豆腐店の手作りで、品質のよいsoybeanということになると、国内産であって、どうしても割高になる。

2010年10月27日水曜日

potato,sweet potato,vegetable33    

 自分の郷里はgreen pepperの生産地として全国的に有名であることは先に述べた。昔green pepperは栄養豊富であるからと母親が子供らを説得して食べさせるということで、その苦さの故に嫌いな野菜の一つとして、あげられていた。しかし、最近は、大部分の品種はくせのない味に改良され、とても食べやすくなっている。最近のgreen pepperはサラダとして生で食べても甘みがあって、子供にも好まれるものが多い。また、色とりどりになって、食卓を飾る野菜として、重宝されている。
 昔母はgreen pepperをだしの入った醤油で炒めたものを食卓にならべることがあった。苦みは少しあったが、子供がきらう野菜の一つとして、嫌われたようには、自分はきらいではなかった。これもまた幼いころを思い出す料理の一つである。
 

2010年10月26日火曜日

切り干し大根(dried and cut radish)

  dried and cut radish,carrot tasted with soy sauce

potato,sweet potato,vegetable32    

 宮崎市内から南西にさほど離れていない地域では冬の畑に柵が組まれて、そこには刻んだradishが天日で干してある風景をいたる所にみかけることができる。これを切り干し大根(dried and cut radish)といい、この地域の食生活には欠かせない食材の一つである。
 宮崎平野は日本の中でも日照時間が最も長い地域の一つであるので、切り干し大根(dried and cut radish)をつくるには恵まれた地域であるが、とくにこの南西部は九州の屋根である、霧島連峰がちかくにあることもあり、霧島降ろしといわれる、秋から冬にかけて吹き下ろす乾燥した風が良質の切り干し大根(dried and cut radish)をつくる環境となっている。
 切り干し大根(dried and cut radish)は、太陽の光を浴びることで、糖化されて甘味がさらに増し、栄養価も増加する。骨や歯を丈夫にするカルシウム(calcium)は15倍、悪性貧血を予防する作用がある鉄分(iron)は32倍、代謝を促進するビタミン(vitaminB1・B2は10倍と、同量の大根と比べた場合、栄養価は非常に高い。
 また切り干し大根(dried and cut radish)には、食物繊維(fiver)が豊富に含まれている。食物繊維(fiver)は、コレステロールを体外に排出し動脈硬化を予防する作用や、便秘を改善し大腸ガンを予防する作用、美肌にも効果的に働く成分である。さらに食物繊維(fiver)は食後、胃や腸の中で水分を吸収し膨らみ、少量でも満腹感が得られるため、ダイエット(diet)にも効果的だ。他にも切り干し大根(dried and cut radish)には、二日酔いで弱った肝臓や胃腸を回復し食欲を増進させる作用や、保温作用により冷え性を予防する働きがあるといわれている。
 このように、野菜が不足しがちな冬の時期には、不可欠な栄養補給元として、様々に加工されて、食膳に並べられることになる。自分は煮しめの形でサトイモ(taro)やニンジン(carrot)などの根菜類とともにおかずとして出された切り干し大根を覚えている。これもまた、故郷の味として、親しんだもののひとつである。

2010年10月25日月曜日

桜島大根 

                   桜島大根(sakurajima radish)

2010年10月24日日曜日

potato,sweet potato,vegetable 31 

  昭和30年代はまだ終戦の波紋が収まらない時期であった。特に地方の田舎では、経済復興の影響はさほど急激には表れてきていないようであった。幼いころはすでに廃止されたはずの50銭玉を使って近くの雑貨屋で飴玉を1個買った記憶がある。
 地域の行事があるときに少し豊かな家庭が、ジュースを水筒に入れて家族で飲んでいる様子を横目で見るときがあった。自分の目にはその鮮やかな色のジュースがとても魅力的で、羨望の気持ちをじっと耐えていた。当時は普通水筒には水が入っているのであって、ジュースは入っていなかった。今でこそ店頭にありとあらゆるジュースが並んでいるが、このような状況を想像することは不可能であった。
 自分の郷里の周辺でも当時はsuger caneが栽培されていた。今でもOkinawaや奄美などの南方の島々でsuger caneは栽培され、加工して黒砂糖にしているが、当時は本土でも栽培がそれなりにさかんであったようだ。店頭にsuger caneが30cmくらいの長さに切って売っていた。
 食べる時は表面の固くてちょうど竹のようになった部分を端の方から歯で噛んでそのまま引っ張ると、中からjuicyな部分が表われてくる。一回り噛んで剥がしてしまうと、次はがぶりと口の中にほうりこみ、奥歯で何度も噛んでゆく。すると甘い液糖が口の中に搾り出されるのであった。
 時には歯の間に繊維がはさまって血がでるようなこともあったが、貴重なsweet資源として、好んで噛んでいた。

2010年10月23日土曜日

スイカ(water melon )

                                          スイカ(water melon)

potato,sweet potato,vegetable 30

日本には伝統的にfour seasons折々の行事がある。今でこそさほど季節感をもてない環境が多々できてしまっているが、南九州は夏の蒸し暑さが前提となっているので、家屋は夏いかに快適に過ごすかということを考慮したつくりとなっている。
 暑さを凌ぐために伝統的な家屋は風通しを良くする構造をしている。吹き抜けのために壁は障子で仕切られ、暑い時は開け放す。夜は蚊帳を吊るしたり、蚊取り線香を焚くことにより、虫刺されを防いだ。床は基本的に高床式であり、湿気を防ぎ、地面からの冷気をほどよく取り込むことが出来た。エアコン等の器械は使わず、基本は団扇で風をおこす。ときにiceを削りカキ氷にして食べたり、またwater melonを井戸で冷やしておき、ほどよく冷えたところで、water melon割りをしたりしてfamily分けて食べるのである。
  夏の風物誌として描かれる原風景は九州の夏にあるのではないだろうか。近年の密封された家屋の構造では暑さを凌ぐために必然的にエアコンを取り付けることになる。九州の夏は現代建築との間になにか隔たりをもたらしてしまっているように思う。

2010年10月22日金曜日

potato,sweet potato,vegetable29

 郷里は平凡な田舎という印象がある。川があり、山があり、畑や田んぼがあり、農家があってcowpigchickenを飼っているところもある。父親の仕事の関係で、県内を移動することがあったが、どこも大都会の生活とは、かけ離れた素朴な生活の環境であった。
 春になると、畑ではレンゲの花やrape blossomsをみることができた。レンゲの花は花弁のところに密を持っていて、honey beeが好んで蜜を集めにやってきた。自分たち子供らも時にはレンゲ畑に寝転んで、honeyを舐めるのであった。rape blossomsはそこからrapeseed oilを集めるために栽培されていたが、菜の花の栽培されている菜の花畑は一面の黄色いじゅうたんのようになる。
春は短い間であるが、ピンク色のcherry blossomsが咲く季節でもあるので、これらが春の陽気の中で美しく映えるのは強い印象として、残っている。自分にとっての郷里の記憶の中に深く占められているである。

2010年10月21日木曜日

potato,sweet potato,vegetable 28

 今年はchestnutが豊作なのだろうか。昨年に較べても出荷量が多いように思う。今年の夏の異常気象はこの作物にとっては、よい条件であったのだろうか。
 chestnutは縄文時代にはかなり日常的に食べられていたと聞く。南九州には縄文時代の人々が集落を作っていたという遺跡がある。そこからchestnutを栽培していたことを裏付ける痕跡が発見されている。貝塚なども発掘されているので、当時の食事が海のもの山のものと結構バラエティに富んだものであって、米作が始まった弥生時代以前でも結構文化的な生活があったのように推測される。
 chestnutについては、自分の持病であるkidney stonetreatmentによいとherbal medicineの資料にあった。しかしchestnutの実を食べるのが良いというのではなく、chestnutを煮るときに出てくるscumが石を流す効能があるというものであった。
 たしかに数年前であっただろうか。病院での石の破砕施術をしても効果のなかったところをこの処方箋にしたがって苦いchestnutscumKorean ginsengとを併用して、煎じて飲んだところ流れ出たという体験がある。chestnutのアクがどこまで効果の原因になったかは正確にはわからないところもあるが、試してみる価値はあるのではないだろうか。

2010年10月20日水曜日

すき焼き(sukiyaki)

                                                                すき焼き(sukiyaki)

Potato, sweet potato, vegetable 27

 南九州における畜産業がダメージをうけることは、産業全体に対して大きな影響を与えてしまう。今年の春に発生した口蹄疫は大きな波紋として、現時点においても影響を与えている。口蹄疫はその原因がはっきり特定できていないということから、またいつ発生するかわからないため、今でも消毒作業が日常的なものとしておこなわれている。
 この疾病は蹄が二つに分かれている動物にしか感染しないという。畜産物として豚、牛が対象となる。今回の感染ルートはいまだ特定できず、中国から輸入された家畜飼料に菌が混じっていたのではという説があるがこれも決定されたものではない。
もしかして野生動物から感染したのではないかということも考えられる。以前、鳥インフルエンザが流行し、多大な被害を被っているが、この感染ルートは渡り鳥ではないかといわれている。家畜の場合は管理をする道もあるが、野生動物にとっては人間の作った国境とか境界というものは適応されない。
現代では国境はあるが、交通の発達により、容易に世界中を往来することができる環境となっている。最近は抗生物質が全く利かない新種の菌が発見されているが、これは国際交流の活性化とともに人と人が容易に接触する環境ができて発生したものである。

2010年10月19日火曜日

potato_sweet potato_vegetable 26

 戦中戦後の食糧事情が劣悪化していた時代、人々は食料調達に苦悶していたことを聞く。sweet potatoはそのような中でprecious food sourceとして栽培されていた。
当時のことを知る人は『だご汁』を食べていたと言う。九州では今でもそれをアレンジして現代風の料理として、食べさせてくれる店もあるが、当時のものをそのまま再現した場合には商売としては成り立たないであろう。
 当時の『だご汁』は名前の如く団子の入った汁ということで、団子はwheatmilletを挽いて作った粉を半練りの状態にして少々の塩を混ぜて湯の中に入れて固める。これをvegetablesと一緒に煮込んで作る。
 ただ当時焼け野原と化した土地からはvegetablesをせいぜい調達する程度であって、現代のように形が悪いとか、少しキズがはいっているから、店頭に並べられないというようなことは有り得なかった。口に入れられるものがあることで十分であって、栄養失調という状況は社会現象として、日常的なものであった。
 自分が小学校のころは戦後10数年がすぎていたが、学校給食で栄養補給のためのskim milkがメニューとして必ずでていた。アメリカでは家畜の飼料として使われている物と聞いて、しばし愕然としたことを覚えている。

2010年10月18日月曜日

栗きんとん(sweet potato mixed chestnut)

                                          栗きんとん(sweet potato mixed chestnut)

potato,sweet potato,vegetable 25

 自分の好きなsweet potatochestnutを入れて出来たものを『栗きんとん』(kuri-kinton)と呼ぶ。この場合下地に蜜を加えて、作ることになるので、natural sweetという段階から加工されたお菓子というイメージが強くなる。
 特にchestnutの部分はchestnutのいがを取り外すことから始まって、syrupに浸して保管しておく作業など結構手がかかってしまう。それで通常は既製品を使って済ましてしまうのだが、当時の既製品は値が張るものであったので、『栗きんとん』(kuri-kinon)を食べることはめったになかった。

2010年10月17日日曜日

肉じゃが( Japanese styled mixed potato and meat )

                                           『肉じゃが』(Japanese styled mixed potato and meat)

potato,sweet potato,vegetable 24

 自分にとってのお袋の味を考えてみた。確かにCURRY RICEが食卓に上ることはそれなりに、あったので、懐かしさがないことはない。でも何か確信的なものといった場合それではないような気がする。 今自分がPOTATOやSWEET POTATOが好きな背景には『いも』に絡んだ料理があったのは間違いないと思う。
 それでもしかしたら『肉じゃが』がそれなのかもしれない。少し曖昧な感じがあるのは、思い出として残っているというには、さほど食べる機会が多かったものではないからだ。それでも自分にとっては、好物として親しみのある料理として記憶の中にあるのである。
 『肉じゃが』はPOTATOがほくほくしているものより、JUICYなもののほうが材料としては適している。沖永良部島のPOTATOはJUICYなもので、おいしいと思うのは自分の幼少の時に食べた『肉じゃが』の中にあったPOTATOの味に由来しているのかもしれない。

2010年10月16日土曜日

One of the typical japanese family food----curry rice

                                   typical japanese curry , pork and potato in it

Potato, sweet potato, vegetable 23

 昔はお袋の味といえば、味噌汁というのが、定番であった。しかし近年になると食生活の多様化に伴ってこれが必ずしも定番といえなくなった。
日本の固有のアレンジによって生み出されたカレーライスは、正にその典型かもしれない。カレーの起源はインドあたりの暑い国にあると思うが、そんなカレーは日本に伝わって来て味覚において、相当に変化してしまった。中に入れる具によって様々な個性が現れてくるので、beef curryの定番から、pork curry ,vegetable currysee food curryなど様々なアレンジがなされていった。また隠し味にcoffeeとかソースをいれるとか一工夫して、個性をだしているものも多々世の中に出回っているようだ。
それでお袋の味として、カレーライスがあげられるようになっても、おかしな話ではない。終戦後カレーライスを日頃から食べ慣れてきた世代も父母さらには祖父母にまでなっている今の時代は子供らが日常の味として、慣れ親しんでいるというのも自然なことかもしれない。

2010年10月15日金曜日

potato ,sweet potato ,vegetable 22

鹿児島県には離島が多くあり、そこでは島特有の産物が生産されている。もちろんsweet potatoについては奄美大島などの島では上質の物が生産されているが、以外なのは沖永良部島ではとても良質のpotatoが生産されているということである。
Potato生産地のイメージとして日本で言えば北海道の広大な土地に生産される『男爵いも』というのが先に来る。もちろんUSAIdaho などは日本でもpotato chipsの名で有名である。
そういうイメージからすると、南の小さな離島でpotatoが生産されることは考えにくい話ではあるが、実際そこで生産されるpotatoは極めて美味である。食感からすると北海道のpotatoに優るとも劣らないものである。結構potatoとして濃厚な味わいがある。
南の島々の土壌はpotato生産には不適合なものらしいのだが、沖永良部島は何故か赤土で覆われていることでpotato生産に適しているそうだ。
Potatoの場合は肥沃な土地が良い収穫の条件として必要であることを考えると沖永良部島は鹿児島以南の諸島のなかでは異例という場所である。

2010年10月14日木曜日

Potato, sweet potato, vegetable 21



 九州は農林水産業が盛んであることを以前の文章の中で指摘した。そしてその中でsweet potatoについて項目を絞って話を進めている。今回もsweet potatoについての話だ。
 美味しいsweet potatoを最近見つけた。自分が知らなかっただけで、知っている人は昔からking of sweet potato として好んで食べたようである。『安納いも(an-non-imo)という品種でroasted sweet potatoにして食べると最高にうまい。おそらくsweet potatoを品種改良してできたものなのだろうが、中身が焼くとオレンジ色の鮮やかなものとなる。かなり糖度が高く砂糖を調理の時に加えなくても充分に甘い。だからお菓子の材料として加工するよりそのまま焼いて食べるほうが美味しいと思う。
 『安納いも』はサツマイモの品種なので多分どこでも栽培できると思うが、鹿児島以南の島で出来た物は最高に美味しく、販売されているものも値段が高い。ただそれに似合う美味しさがある。

2010年10月13日水曜日

how to make sweet potato in detail (English explanation)

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Sweet, Sweet potato, Vegetable 20

先日、八百屋を覗いてみるとautumnroot cropsが並べられていた。今年は異常気候の影響で、vegetablesが高騰している。
lettucecabbageなどの葉野菜はsummerの連日の猛暑でなえてしまって、元気がない。riceの収穫はrainy seasonには確か、今年は豊作になるだろう。と予測されていたように思う。ところが、夏に猛暑日が続くことでricequalityが落ちてしまったということであった。半透明の米粒に白く変色した部分が混じると値が下がってしまうらしい。
ちょっとした、気象の異常が収穫に相当影響を与えてしまうのが、市場に出回る野菜類の持つ繊細な事情である。日本国内での食糧自給率は先進諸国の中では最下位に属する。そのような中で国内において生産される稀少なvegetableもこのように異常気象の影響を諸にうけてしまうのである。先行きが思いやられる日本の抱えた事情の一つである。
そのような中で sweet potatoは今年も多く出回っている印象を受ける。気象の変化に結構順応できる品種である印象を持つ。root cropsの食糧源としての見直し、これは好みの問題ではなく真剣に論議されるべき課題なのかもしれない。

2010年10月12日火曜日

how to make aweet potato

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potato_sweet potato_vegetable19

sweet potatoにも最近色々な種類があることに興味があり、食べ比べもしている。
子供のころの思い出としてあるのは、母の作る『きんとん』がある。
母の作るこのdesertはサツマイモを加工したものであった。aweet potatoを蒸す。蒸し終わると次に皮を剥ぎます。その後満遍なくすりつぶします。蒸し過ぎた場合は水っぽくなるので、そうならないように蒸す途中では箸を使って上手く刺さるようなら次の加工に問題ないと判断して蒸すのをそこで留めておきます。
擦りつぶした芋に先にsugerで甘く煮たappleの小片を加えます。butterを加えて、これらをこねます。このときに母は食紅を加えて彩りを良くしていました。
後は型を使って好みの形にするか。布巾を使って丸く形を整えるかで終了です。
最近のaweet potatoを使ったお菓子では表面に焼き目をつけるためにovenを使って焼き上げるというものもあります。中にはappleはいれていないようです。

2010年10月11日月曜日

potato_swet potato_vegetable 18

日本は半世紀を待たず経済大国として経済的発展をなした。第二次世界大戦の敗北によって焦土と化した日本列島を当時のある為政者はこの国がたちなおるのに100年以上を有するとまで言わせた状況であった。
しかしこのような繁栄がもたらされた背景には奇跡のようなことが折り重なっていた。このような国の食料事情はどうだったのだろうか。世界大戦の時代は国民の生活は豊かではなかったが、都会の人々は食料を求めて私財を携えて、田舎へと行き物々交換もしていた。
riceは主食として、必需品であったが、敗戦とともに焦土となった国土からは稲作で得られる米は充分国民に配給できるほどの量は確保出来なかった。
南九州ではsweet potatoは既に江戸時代のころから、飢饉に強い食物として、栽培されていた。戦中戦後の枯れた国土にはsweet potatoはまさに食料源として、不可欠のものであった。

2010年10月9日土曜日

potato_sweet potato_vegetable 17

 南九州はsweet potatoの産地として有名であることは、知られていた。sweet potatoが良く育つ理由は土壌がシラスであることにおそらく由来する。シラスというのはvolcanic ashesが土壌となったものである。大昔、桜島が大噴火してその大量のvolcanic ashes大地に降り注いだ。シラスは黒土や赤土に較べると養分が極端に少なく通常のvegetableは育ちにくい。加えて水はけが悪く、大雨でも降るとシラスで出来た土地は直ぐに崖崩れの災害をもたらす。
 江戸時代のころは諸国の大名の評価は石高で決まった。薩摩藩は領土は大きかったが、大地がシラスで覆われていたriceでは思うように実績をえることができなかった。従って多くの庶民は自分たちの食糧を確保することができなかった。武士ですら事情はそう変わらなかった。薩摩の武士を『芋侍』と称した。
 江戸時代に起こった飢饉は庶民に大きなダメージを与えた。その時に養分の乏しい
シラス大地でも育つことのできるsweet potatoは貴重な食糧資源となった。

2010年10月8日金曜日

potato_sweet potato_vegetable 16

 南九州はイモ(POTATO)といえば、多くの場合sweet potatoのことをいう。特に鹿児島(薩摩)は、sweet potatoのことを『サツマイモ』と呼ぶように、その産地として有名である。このsweet potatoを使った芋焼酎は全国に多くのファンがいる。
 サツマイモはその由来が、大陸にあったものなのか『カライモ』という言い方がある。沖縄を始めとする南の島々の人々は『サツマイモ』という表現を嫌う傾向にある。かって沖縄が琉球と言われた時代、薩摩藩は南の島々の農産物例えば『sugar cane』などを薩摩藩の財政資源として、強引に徴収していった経過があり、元々薩摩にあったわけではない『カライモ』を『サツマイモ』と名称を変更することに島の人々は強い反発があったのではないかと思う。名称の変更は搾取の象徴として忌み嫌われたものと思う。

2010年10月7日木曜日

potato_sweet potato_vegetable

 暑かった夏が過ぎ、急に朝晩が冷えるようになった。秋の到来が来て嬉しいのはsweet potatoが市場にたくさん出回ることである。sweet potatoには小学校時代の記憶を蘇らせる力がある。
 宮崎はagricultureを主要産業とする農業県であることは先に紹介した。自分の家が農家であるわけではないが、周辺がagricultureと深く関わっている環境なので、productsと何かと関わってくる。宮崎市内から西の地域は自分の出生地であるが、ここは全国でも有数のgreen pepperの産地である。
そのわりにはこのことを知ったのは、随分あとからの話で、自分としては近くのfieldでとれたであろうsweet potato がいつも関心のゆくところであった。特に石焼き芋(sweet potatoes baked in hot pebbles)はとても魅力的であり、この嗜好性は今もかわることなく、続いている。
 石焼き芋(sweet potatoes baked in hot pebbles)に留まらない。 たとえばsaladを店頭に陳列してある、様々な中から一つ選ぶとするなら、まずpotato salad ということになる。また肉じゃがは母の味という風に思う。 こんな好みから自分はpotato lover であることを認めざる負えない。
 食は生活全般に関わってくるものと考える。私の人生に関わってきたpotatoとの関わりをそしてvegetableについて触れて行きたいと思う。

いもがら閑話14

 小学校4年生の頃の記憶があまり、残っていない。印象的な出来事が少なかったからか、それとも自分自信の心の状態が何らかの理由で閉ざされていたのか、どちらかであったかと思うが、あえて深く探ってゆくと内面的な要素が大きいように思う。3年生のころに受けた外から来る刺激は、時間と共に深く心のなかに溶け込み、とりあえずの順応という形で性格のかたちで現れてきた。
 また自分の奔放さとは裏腹に肉体は毒素によって病気がちな生活を送るようになった。この頃は、季節の代わり目には、すぐ風邪を引くとか、目とか耳とか炎症を引き起こすとか、毎日が憂鬱になってしまうような状態が続いた。
 こうして性格は内向的な方向へと形作られていった。そして、仮に印象的な事があったとしても結果的には記憶のかたちにまで定着していかなかったというのが、この期間の特徴ではないかと思う。

2010年10月5日火曜日

いもがら閑話13

いもがら閑話13
 南九州は農林水産業において基本的に成り立っている地域である。それ故自然の猛威から発生する災害は住民に大きなダメージを与える点においては、他の地域と比較しても、決して例外ではないと思う。
ただ、温暖な気候は人々の性格や考え方に影響を与えているのか、大方の住民は順応という形で生活を維持しているように思う。経済的な面からみれば、南九州の各県は最下位の付近に並んでいる。地方の中の地方の故ということであろうか。
しかし、昔自分が東京や大阪に住んでいたころの生活と比較すると、欲を張らなければ、かえって住みやすいのではないかと思う。大昔人々は物と物の交換で生活物資を得たと言うが、そこまで極端ではないにしても田舎では人と人の交流のなかである程度の生活の糧を得ることができる。
都会ではお金が交流の間に介在することで社会を成り立たせるようになっている。food stockを得ようと思えば、店で購入するというのが通常である。もし、物資が不足すると当然価格は上昇する。品質が落ちても食糧であれば、値が張っても必ず確保しなければならない。こうして、都会では物価に生活が直接ダメージを受けるようになる。
大阪に住んでいるころ、riceが極端に不作で、東南アジアからriceを緊急輸入して販売していた時があった。取引業者の買占めが絡んでいたようでもあるが、大阪ではdomestic riceの値段は極端に高騰し、輸入米を買う以外には米を確保することができなかった。輸入米の値段は通常のdomestic riceより高かったことを覚えているが、日本人の口にはとても馴染めない代物であった。
その頃のことをこちらに移り住んだ後、何かの機会に話したことがあるが、だれも信じられないという反応をした。riceの不足は全国的なものであったが、田舎では国産米をその時期にも確保出来て食べていたということである。

2010年10月4日月曜日

いもがら閑話12

 南九州は農畜産物の宝庫である。最近でこそ口蹄疫で宮崎の畜産がクローズアップされるようであるが、つい最近のこととして、鳥インフルエンザで養鶏が壊滅的な打撃を受けたことはまだ記憶に新しい。飼育している数が適当な数ではないので、いざ事が起これば、ダメージは取り返しがつかないほど大きくなる。
 それにしても、最近の傾向として、災禍は急速に大きくなって収拾するのが大変難しくなるようだ。勝手南九州は台風災害が多く、台風銀座と言われるほどに、夏から秋にかけて接近そして上陸というパターンがあった。被害も大きかったが、最近の災害と較べると自然災害としての側面が強かったように思う。
 それに比べると最近のケースは、台風一つとって見ても2次災害つまり人為的な問題がからんだもの、例えば堤防の不整備が原因での決壊とか、鉄砲水が予測出来なくて、災害に巻き込まれるとか、自然との向き合い方が何か以前より、複雑で難しくなっているのではないかと思う次第である。
 今までの曖昧にしてきたものの付けが回ってきたのではないかと思う。地域の働く人の努力が無下にされることのないよう、はっきりすべきものははっきりとさせ、何事にも問題が大きくならないような政策が必要ではないかと考える。

2010年10月3日日曜日

いもがら閑話11

 新天地は九州山地の盆地の中にあった。南九州の背骨にあたる韓国岳や高千穂の峰を一望することができる。
四季折々に山々の見える風景は変化をした。春から夏にかけてはツツジが山の至る所で咲き、ピンク色になっているのが見える。夏の山々は深い緑色にかわる。秋になると空気が清涼になり、山々は青みが強くなってくる。冬が近づくと積雪するので、それまで遠くに見えていた山は距離が変わるわけでもないのに、ぐっと近くにそびえ立っているように見える。高千穂の峰は谷に当たるところは春先まで残雪があって切り立った山肌を印象づけるものであった。このような山々の様子の変化を学校からいつも見ることができた。南九州の山々の見える風景は自分に身近であったこともあり、今も心のなかに深い印象として残っている。
秋口に韓国岳に遠足で登山することがあった。快晴の日に山頂から見える周囲の光景はこの世のものとは思えない神秘的なものであった。深い青い色の空気の層を通して見える風景はまるで海の中を覗いているような不思議な感じであった。山頂から下方にはるかに小さく見える田畑や森や川や建造物は美しい宝石でも見ているような気がして、しばし我を忘れる瞬間であった。
鹿児島方面に目をやると、桜島がはるか遠方で噴火して白い煙をあげているのが見える。原生林の中にお椀を逆さにしたような形の火口湖が点在し、マグマの影響か、水の色が時々に変化してゆく。
こんな神秘的な風景はめったに見られるものではないと思う。まさに筆舌に尽くし難いというのは、こんな風景かと思う。

2010年10月2日土曜日

いもがら閑話⑩

 小学校時代に親しくしていたもう一人の子供がいた。友達としてはなんとなく少し距離があったので、今思うに級友という程度の付き合いだったのかもしれない。彼は医者の息子であった。誕生日が同じで、左ききであることも共通点であった。
ど田舎でもあり、世の中全体がまだ高度成長期にあたり、貧しさはまだ一般的なものであった。そのような時代にあって彼の家は両親とも医者で裕福であった。家には女中さんも居た。普段はその女中さんが彼や家のことを世話していたようだ。
 彼は近くの子供らと外で遊んでいて、3時になると「おやつですよ。」とその女中さんに呼ばれて帰っていった。連れの子供らが多くいると彼が手作りのおやつを家で食べている間、駄菓子の袋が配られていた。子供らはそれを目当てに遊びにくるという節もあった。 
 彼は親から英才教育を受けていたようだ。学校の音楽室では、彼のピアノの生演奏を良く聞いていた。ピアノの演奏は自分の生活とあまりにかけ離れていて、関心はするものの別次元のこととして見ていた。
絵画も先生について勉強していたようだ。ある時彼と一緒に外で写生する機会があった。題材は一本の木を描くというものであった。二人で同じテーマに臨んでいたのであるが、近くを通ったおじさんが彼の絵のタッチと自分の絵のタッチの違いを見比べて、彼の絵を賞賛するわけで、自分は心の中で木はゴツゴツとして豪快なのがいいのだと自分なりの理屈を作ってその場を凌いでいた。しかし実際は彼のように絵が描けたらいいのにという羨望を持っていた。当時の我が家の経済状態は教師をしていた父の安月給でなんとかなりたっていたものであって、習い事をするなどという発想そのものがなかった。
彼には色々な面で適わないと思っていながらも一緒に遊ぶ機会は多かった。一つ自分が優っているなと思ったのは体力であった。野を駆け回っていた自分は同年代の子と比較すれば格段の運動能力に優っていたように思う。瞬発力、走力、腕力等周りから一目おかれるような水準があったようだ。一面彼はひ弱なところがあって、そういうことでお互いは補い合っていたのではないかなと勝手に思っている。
中学になると父の転勤があって引越しをしたこともあり、付き合いは途切れてしまったが、彼はその後医学部に進み家業を継いだようである。


2010年10月1日金曜日

いもがら閑話⑨

小学校3年の時また一つ記憶に深く刻まれる出来事に遭遇している。ちょうど日本は東京オリンピックが開催された年であった。日本の高度成長期に突入するきっかけとなった国をあげてのイベントは、田舎にもそれなりの波及効果をもたらして行ったものである。
オリンピックの開催をカラーテレビで見ようという流行は、当時としては画期的な格安テレビ、ソニーの13型トリニトロンカラーテレビが発売された。
そこで新物好きの父は大枚をはたいて我が家でこのテレビを購入した。当時で9万円くらいと記憶しているが、物価水準からすると、今なら50型の液晶ビジョンを買うようなあるいはそれ以上のものを買うような高い買い物ではなかったかと思う。カラーテレビの魅力が決断を促したのではないだろうか。
ちなみに新物好きの性格は祖父譲りなのか、父は他にも何か新しい器械が現れると金もないのに購入していた。そのころを前後するが、祖父が購入したらしい大きなオープンリール式のテープレコーダーを祖母の家で見たことがある。かなり、初期のものではなかっただろうか。今あれば稀少価値のある骨董品ではないかと思う。そんな祖父の姿をみてきたのであろう。父は職業として工業高校の機械科の教諭になっていた。自分も父の姿を見てきたので、今でも、新しいガジェットを見つけると、強い興味を覚えて可能なら手元におきたいなどと思ってしまうし、構造はどうなっているのかと調べてみたくなるのである。
話は戻るが、アジアで初めてのオリンピック開催は敗戦から立ち直っていった日本の底力を象徴するかの出来事で、テレビのニュースを通して東京では環状線高速道路の建設が急ピッチで進められているということが報道されていたし、至るところで外国からの来客を迎えることを前提に建設ラッシュが続いていたことを覚えている。
そのように世の中が変化してゆく中でも、自然の脅威というものは、それとは全く別問題として突然として、やってくる。人間が技術の粋をもって築きあげた建造物であったとしても、自然の猛威のまえには、ほとんど無力に等しい。
自分がこの時に体験したものは、『えびの大地震』と呼ばれるものであった。えびのの近くの京町という地域が震源地となる、直下型の大地震であった。マグニチュード7.9と記憶している。震度で5.8位だったと思う。
それは小学校での授業の最中に起こった。まず遠くから聞こえる爆発音から始まった。ドカーンという異音に驚いていると、地面が縦に小刻みに揺れ始め、急激にまるで機関銃でも撃った如くに、ババババババという爆音とともに地面も建物も揺れ、居ても立ってもおられないような状態になってしまった。
地震の時はまず机の下で身を守れと普段から指導は受けていたものの、振動があまりに激しくて、そんな余裕もないまま身をなるがままに任せているしかなかったというのが実際であった。そんな激しい揺れが収まると、先生が「皆、急いで外に出ろ」と叫んだ。その命令に従って大急ぎで外へ走っていった。校庭には大きな木が一本あったが、そこを避難場所として移動している途中、今度は波は横揺れとなり、地面がまるで横向きにどこまでもどこまでも移動してゆくのではないかという状況になった。地面が揺れるということがどれほど恐ろしいものなのか、肌身で感じた瞬間であった。足元は固定しているということを信じて、普段生活しているわけで、それが根本から崩れて行くときの動揺はどう表現したらよいのだろうか。絶望的ともいえる心境であった。
時間の経過からすれば、そんなに長い時間ではなかったのかもしれないが、その肌で感じた地震体験は、心の深い所にどうしようもなく刻まれている。

2010年9月29日水曜日

いもがら閑話⑧

 父親の転勤で移り住んだ新天地での生活は、小学校卒業までであった。親しく付き合っていた友人たちはそう沢山はいなかった。一人はI君といって地元の地主の家に生まれた子であった。生まれつき体の弱い子で、末っ子らしい甘えん坊ではあったが、お父さんは丸坊主の風格のある人で厳格な雰囲気があり、お母さんは小柄のやさしい人であった。お婆さんがいたが田舎のお婆さんらしく明るくてかわいらしい人であった。そんな家族を持ったI君であったのでなにかと理由をつけては彼の家を訪ねていった。
古い農家の建物は高台にあり、何か昔の田舎武士の家屋を思い起こさせるものであった。自分はそんなたたずまいが気に入っていたのであった。借家の我が家とは全く違った環境に、I君に会いに行っては、ひと時の楽しい時間を過ごしたものであった。当時は電話で遊びの予約をするなど考えることもできなかった。直接行って、縁側で「あそぼ~」と声をかけて誘うのである。不在だったり、何かの理由があると、家人が出てきて誘いを断るわけで、その時は他の友達を捜しにゆくことになる。
ある時いつものようにI君を訪ねて行くと不在だったので、近くの川原に出て見た。そこでは、当時『悪がき』と言われていた同級生の男の子が何人かの観衆を前に縄跳びをしていた。遠くから見ると太い縄かと思っていたが、近づいてみるとそれはニシキヘビであった。彼はヘビを縄跳びにしていたのであった。ヘビのうろこが飛び散り生臭いにおいがしていた。何とも野蛮で残酷な奴だと思ったが、気持が悪くてその場を去った。
 ところでI君のお母さんは広島からお嫁に来た人で、広島原爆の被爆者であった。彼の家を行き来しているうちに聞いた戦争や原爆の体験話は、子供心にも深く残っていったのであった。
戦争といえば、戦争の痕跡は、この田舎にも所々に残っている。防空壕あとは我らの秘密基地になっていた。そこが戦時中、爆撃を避けて人々が避難した場所であったこともあり、決して明るい場所ではなかった。防空壕あとが子どもの遊び場になっていた。そのうちの一つで親に隠れて二―ビー弾(火薬を爆発して遊ぶオモチャ)を大量に爆発させて大やけどをしたというような事件が発覚したことを思い出す。とにかく親の目の届かないところで起こる事件は結構多かったのではないだろうか。
特に男の子たちが生き残ってゆくには危険な環境が多かった。

2010年9月28日火曜日

いもがら閑話⑦

新天地での生活のエピソードは続く。竹林の中での遊びに飽きた時は、谷川がわれらの遊び場となった。親族の叔父から譲り受けた歴史物の子供用自転車が自分の移動手段であった。5分ほど走るとそこには渓流があった。大きな岩がごろごろあってその間を水が流れているような川である。
この川原での遊び方はもちろん渓流釣りというのもあるが、自分の場合あまり釣りには親しんでいない。そこでしたのは大きな岩を飛び移ってゆくという忍者遊びであった。岩と岩の間をジャンプして時に身を隠すそんなことを繰り返す。また時には石投げに挑戦をし、水面に石をすべらせてそのジャンプの回数を競うというものである。そういう経験は手や足腰を丈夫にする格好の訓練場であった。
ただ時には失敗をしでかすこともあった。岩から岩に跳び移るときに注意をしていないと岩苔で足を滑らすことがあるのだ。一度そんな体験があった。川に落ちて、着ていた服は全部びっしょり濡れてしまった。幸い流されて溺れはしなかったが、一歩間違えばどうなっていたことだろうか。濡れたまま家に帰れば、家の人にこっぴどく怒られるだろうと不安になり、川原で服が乾くまで裸になって待っていた。この時は何事もなかったようにして家に帰った。
夏休みの渓流での水泳は、毎年恒例であった。この渓流での水泳は水泳禁止区域というものを避ければ、学校でも許可されたものであった。しかしながら、事故というものは、どこでどう起こるかは分からないものである。
ほんの2mくらいの川幅しかない場所を自分は潜ったまま彼岸に渡ろうとした。川は流れが速く、すぐに渡れるであろうと思って挑戦したのであるが、結局流されてしまい、自分は水底に沈んでしまった。意識が次第に朦朧としていった。遠くに光がきらきらとしているのが見えた。その光の方に行こうとしているうちに、はっと目が覚めた。自分は川原の陸の部分にあおむけになっていて監視員から人工呼吸を受けて口から水をはきだしているのであった。
あのまま光の方に行っていたらどうなっていたのだろうか。死というものと生というものの狭間で自分はその時さ迷っていたのではなかろうか。

2010年9月27日月曜日

いもがら閑話⑥

 人が住むには決して良好とはいえない環境でのエピソードはさらに続く。
竹林に囲まれた周囲の環境はその付近に住む同年代の子供たちに格好の遊びの知恵を与えた。竹は多くの場合、子供らの遊び道具を作るための材料となった。我が家の子供らをみていると、ナイフを使って、鉛筆を上手に削るなどということが、なかなかできない。自分たちが小学生のころは、ナイフを使って物を作り出すというのは至極当然のことで、今時の子たちと違ってナイフは危険だから使わないなどという発想はあまりなかった。自分の指にはいつもナイフや竹でできた生傷があって、絆創膏を貼っていないときのほうが珍しかった。
 竹を使って紙玉鉄砲を作るのはとても楽しかった。質の良い竹を切りだし加工をする。竹の筒が、中に詰める新聞紙を水で溶かし球状にした弾にしっかりと密着し、2つの弾のあいだのシリンダーが圧力に十分耐えられる構造をどう作るか。これがポイントとなる。筒は長くするほど圧力があがり、弾はより遠くへと撃ちだされるが、シリンダーの部分が弱いと圧力で割れてしまうことになる。それでこの絶妙なバランスを得ると素晴らしい紙玉鉄砲が出来る。思考錯誤しながら、製作を重ねた。良いものが出来ると周りの子供たちには鼻高々となる。時には連発式紙玉鉄砲を作ったこともある。単発のものに較べて、銃撃戦になると連発式はとても有利であった。
 竹は竹馬の材料でもある。最近のスチール製の頑丈な竹馬とは違って、竹と縄を使って作る自家製のものである。足を乗せる台を固定するために思考錯誤したことをおぼえている。とにかくそこいらにある自然の材料を使って作るしかないのである。
 ある時竹ひごとバルサ材と紙を使ってグライダーの模型を作ったことがある。いよいよ完成し、試験飛行をする日を待った。当時夏から秋にかけては台風が頻繁に発生し、進路は南九州方面に集中し、時には台風の目が上陸するということがあった。
試験飛行の日は、まさにそんな日だった。重い雲で覆われ激しく吹き荒れた台風はあるときから急に静かになり上空に青空が広がった。まさに台風の目の中に突入したのであった。どうせ試験飛行するなら強い上昇気流の起こる瞬間が良いのではないかと思い、台風の目が通り過ぎるのを待った。
数分が過ぎたのだろうか。風はそれまでとは逆方向に急にふき始めた。今だと思い、セットしてあったグライダーを強く押し出した。グライダーは急速に上昇し、見事に木端微塵に破壊され、残骸が降って来たのであった。一瞬の出来事であった。実験とはこんなものだと思い無念の思いを噛みしめながら家に帰ったのであった。

2010年9月26日日曜日

いもがら閑話⑤

小学校3年になるころは、新天地での生活にも次第に慣れ親しんで来た。最初に引っ越しした借家は、3人の男の子をかかえた家庭には手狭であったので、1年もすると、少し広めの借家へと移った。
 自分としては、小学校に近かったので都合は良かったが、何とも不思議な構造をした借家であった。元々そこは、お茶を製造する工場を長屋のようにして区切り、人が住めるようにしたものであった。したがって、ちょうど羊羹を輪切りにしたような細長い作りで、すべての部屋が、一列に並び台所まで一直線になっていた。
元々工場であったので、2階は物置となっており、外の階段からしか中に入れなかったが、入ることは原則出来なかった。しかしながら、子供にとっては格好の探検スポットであり、ドアをこじ開けては、中に入り、化け物でも見つけるようなスリルを期待して、探検を続けた。
 周辺は竹林で覆われ、日当たりはあまり良くなかった。建物のある丘の上に続く狭い道路は、梅雨時期になると、いつも土が湿ってどろどろとなり、こともあろうに相当な数の大ミミズがはい回り、そこに車でも来ようものなら、轢かれて緑色の血液を流し、何とも不気味な場所となっていた。湿度の高い日の当らない場所というものは、不気味な生物が多く生息している。体長30センチにもなるような大ムカデが家の中に入ってくることもあったし、大きなクモがそれに負けじと、餌を求めて家の中に入ってくるような事態は一度や二度ではなかった。暗い台所の排水口でミミズのような、しかし頭が逆三角になっている気持ちの悪いぬるぬるした生物をみたこともある。あれはなんだったのだろうか。
 今考えると、とんでもなく生活環境の悪いところにいたのだと改めて思い出されるのだ。当時はエアコンなどという便利な器械を設置するなどという発想はなかった。エアコンは昨今の電気店の店頭にズラリとならんでいるよう代物ではなかった。どの家もあってせいぜい扇風機くらいしかなかった。したがって、我が家においても、例外ではなく、夏は古ぼけた扇風機か、うちわで暑さをしのぶというのが基本であった。虫が部屋に入ってくるのを防ぐのに、縁側の窓を開け放しにし、蚊帳を吊って、蚊取り線香をたく、そんな夏の風景が思いだされる。
 こういう環境にいたからとは簡単に言えないが、自分はいつも体の調子が悪く、不機嫌な時が多かったように思う。最悪だったのは、臀部に大きなオデキ(ネブと言っていた)ができて椅子に座ることが出来ないほど痛みが走っていた。その大きさはしまいには、臀部の左側全部がオデキで膨れ上がり、高熱を伴った。抗生物質が当時は出回っていなかったのだろうか。医者に行って切開なり、薬の投与をすれば、簡単に治っていたのかもしれないが、医者に行った記憶がない。何か『スイダシコ』と呼ばれるゼリー状の軟膏を付けた記憶はある。結局、腫れの峠を越えるまで待ち、1か月後くらいになると父が自分のオデキの周りを絞るようにして押してゆき、最後は口で吸って、どろどろした血膿を出してくれた。それが全部でてしまうと次にオデキの芯の部分が出てきた。家族はそれを見つけると「出てきた、出てきた」と大騒ぎだった。それはラードのような白い塊でこれが摘出されると、それまでの大きなオデキは急速に収縮して、数日後には治ってしまった。
なんとも気持ちの悪い体験であったが、そう誰でも体験するものではないだろう。おそまつ。

2010年9月25日土曜日

いもがら閑話④

田舎の小さな町での生活は、父親の転勤に伴い終焉を迎えた。そして小学2年生の出発は新天地にて始まった。県内での移動ではあったが、小さな子供にとっての環境の変化は、とても刺激的なものであった。
1年生のころに父親にせがんで、雑種の子犬を飼っていたが、その犬は転勤先の新居まで引っ越しの荷物と一緒に箱に入れてトラックで運んだ。引っ越し先に到着して持ってきた荷物をひも解くと子犬は猛ダッシュで飛び出してきた。余程箱の中は窮屈で外が恋しかったのかと思ったが、子犬は野原の中央にあった木の根っこの所まで必死で走ってゆくと長い長い小便をした。どうも箱の中にいた間は小便を相当我慢していたようだ。
けなげというか、潔癖というか、頑固というか。犬は飼い主に似るというが、そのころの自分はそうだったのだろうか。確かに何かにとらわれると、意固地になる性癖があったことを思い出す。
たとえば母が家族団欒の席で良かれと思って用意した、『すきやき』をどうしても拒み続けた。別になにか嫌いなものが入っているからとかいう理由ではなく、何かこの料理のことで意見があわなかったことがあった後のことであった。『すきやき』は当時決していつでもありつける料理ではなかったはずなのに、家族とは別個に決まって自分で卵焼きを作って食べていた。何故決まって卵焼きだったのか。野菜炒めではだめだったのか。その理由は自分でもわからなかった。
こうして子犬との新天地での生活が始まった。周辺は閑寂な住宅街であった。住宅地の一角にちいさな空地があり、そこは野良犬たちの格好の溜まり場であった。そこでの野良犬たちの影響を受けたのであろうか。この犬は成長とともに、性格がなにかイビツになっていった。神経質であり、他人を見ると牙をむけ、物を壊したり、引っぱり出したりして、近所の人々に白い眼で見られるようになった。
父は怒り、この犬は我が家から追放されることになった。山奥に連れて行って、置き去りにするという方法だ。追放しても何度やってもすぐに帰ってくるので、覚悟を決めた父は相当遠くまで行って捨ててきたと言っていたが、真相は分からない。とにかくある時からこの犬はいなくなってしまった。

2010年9月24日金曜日

いもがら閑話③

いもがら閑話③
 小学校1年生のころは何か大きな節目になっていたのだろうか。前回記述した火事の経験は壮絶であったが、直接わが身が傷つき、一歩間違えばそこで人生が終わるような体験というまでには至っていない。その点からすると今回紹介する体験は、まさに危機一髪というところであろう。
 秋になると、町の至るところから元気のよい子供たちの歓声、リズム感のある音楽そしてアナウンスが聞こえてくる。毎年、秋の恒例行事といえば運動会である。家族や隣人たちが総出で応援合戦や、飲食を楽しむ絶好の機会、それが運動会である。
 今は宮崎市では2学期制をとり小中学校は5月が運動会となってしまった。なにか拍子抜けしてしまうことしきりであるが、以前は運動会イコール秋と相場は決まっていた。ちなみに今年(2010年)は口蹄疫の災禍が宮崎県に降りかかり、人が集まるような行事は全部キャンセルとなってしまった。それにともない5月の運動会は中止となっている。それで今年は終息宣言後の9月10月が運動会の月となっている。皮肉な話である。
 さて、時間を巻き戻し、小学校1年生のころの自分に降りかかった災禍は、小学校での体育の授業終了時に起こっている。
その時の現場状況は、正確には覚えていない。運動会の練習でもしていたのだろうか。結構足が速かったこともあり、徒走競争の勝利の余韻を残しながら、自分は教室に戻っていった。自分が何故そこにいたのかは今でも不思議に思う。状況は、当時6年生の男子生徒2人が喧嘩をしていて、20mほど離れたところから一人の生徒が、パイプの管を相手に投げつけた。その真ん中をこともあろうに、自分が通ったわけであるから、見事にそのパイプは自分の頭に命中、一瞬の出来事であるが、そこいらは血の海と化したわけである。
自分は頭を押さえながら、先のほうで会話に夢中になっている担任の女の先生のところにふらふらしながら歩いて行き、後ろから「先生!」と声をかけた。その先生はうるさい子が話しを邪魔しにきたと、見もせずに手を振り払ったのである。「違うんです!」ともう一度声をかけて、先生がこちらを振り向いて「ぎゃー」と叫んだところまでは、覚えているが、あとは記憶にない。
気がつくと、自分は保健室なのか、病院なのか、割れた頭を縫合手術していた。パイプは左目の3センチほど上に突き刺さったものでちょっとずれれば、命はなかったかもしれないということであった。

 

2010年9月23日木曜日

いもがら閑話②

小学1年生の時、住んでいた小さな町は大火事となり、町のほぼ三分の一にあたる中心部が焼き落ちた。古い繁華街の道路はとても狭く以前からすでに問題になっていた街並であったが、案の定一軒の飲み屋の火の不始末は、瞬く間に町を火で覆い尽くした。野次馬が多くいて、消防車が現地に到着するのが遅れたことも大火事になった原因であったそうだ。
そのころの我が家は町の繁華街のはずれにあった。この火事の時、火の勢いは小さな野原をはさんだ材木工場のところにまで到達した。火の勢いは全く衰える様子はなかった。
危険を察したわが家族は避難をすることになった。瞬く間の事で、着の身着のままで飛び出したわが家族であった。そのとき家から飛び出た自分は、たくさんの大きな火の球が暗い夜空に勢いよく舞い上がる様子を見た。体験したことのないその光景はあまりにも壮絶であり、恐怖を感ずるものであったので、数十年を過ぎた今でも自分の瞼の裏にしっかりと焼き付いている。
風上の少し遠くにあった公民館に避難している間に火の勢いは鎮まり、わが家族は家屋も含めて災禍からまぬがれることができた。何故、あれほど大きな火事であったのに我が家の前で鎮火したのは今となっては何らかの奇跡でも起こったのではないかと思えるほどである。
この火事のあった時に、自分は人間の根性の一面を見せつけられる体験をした。我が家に隣接した家はバス会社に働く人であったが、この火事で隣人はバスを家の横につけ、家財道具を必死で詰め込んでいた。火事の勢いに狼狽したわが母は咄嗟に自分をそのバスに乗せながら叫んだ。「この子だけでも助けてください。お願いします」と。しかし、その隣人は「そんな余裕はない。出てゆけ。」といいながら、自分を押し返したのであった。自分はなされるがままに振舞ったのであるが、心には何らかの違和感が走ったのである。日頃の姿と違うその隣人に、人間はこうも変わるのものなのかと唖然として見ていたのである。複雑な事情がもしかしたらあったのかもしれないが、子供に分かる術はなかった。
昔よく言われた怖いものの代名詞、地震、雷、火事、おやじのうちの一つがこの時自分に降りかかってきたのであった。

2010年9月22日水曜日

いもがら閑話①

 年齢が重なると先の話を作り出すという作業が億劫になる傾向を避けられない。
 自分の可能性を追求してゆくというより、子供たちのこと、周りの人々のこと、社会や世界のこととその焦点は、本人の探求の世界から次第に遠ざかってゆくことで、なにか気を紛らわせているような自分の姿を発見してしまう。
 それだけ心が広いのかというと必ずしもそうではないのではないか。自分の中に訪ねて行っても出てくるものは、過去の体験からくる結果でしかなく、それは次の挑戦をしてゆくための踏み台となるような盤石なる基台ではない。
 それでは青年のときに挑戦をするにふさわしい準備があったのか。むしろ何もないことが、挑戦するにあたっての刺激であって、何かがあってなしていったものではなかった。経験が次の道を開拓するというよりは、浅はかさ、無知、無思考が無謀さに拍車をかけ今の基礎とつながっていった。
 運が良ければ、その結果は記念碑として残るけれど、どちらかというと後悔という名の墓石に名前を刻み続けたのが青春の実体ではなかったのか。ちなみに思春期を迎えた息子の姿は別に誰かの姿ではなく、自分自身の反映ではないかと思う。それにしても何を考えているのか、いや何も考えていないのか。いずれにしても自分の思春期を年長者が見たら同じような感想を持ってしまうことであろう。それが歴史は繰り返すというパターンの原型かもしれない。 
 こうやって考えてみると、不確かな踏み台の上に立ちながら、次の階へ昇ろうという試みが連続して綴られていったのが、歴史の本質ではないかというのは、極論と簡単には言い切れないのではないだろうか。太古の人々から現代人にいたるまで人間性の本質は時間の流れとともにどこまで進歩したといえるのだろうか。
 人が嬉しかったり、悲しかったりする感情の世界において、どのような違いがあるというのだろうか。1000年前の人と現代人では嬉しいとか悲しいとかいう感情の基本が変わったのであろうか。昔の人に嬉しいという感情悲しいという感情はなかったとか、そんなことはありえないでしょう。ただ病気となって感情を失うという可能性はあるけれど、それは昔も今もかわらない例外でしょう。
 もちろん、人の住む環境的要因は時代の流れの中で科学技術の進展とともに著しい変化をもたらしてきたのは事実だ。それを利用する人間が環境を良くして生活が改善していったということはありえるけれど、人間そのものの感情は基本的に変わるものではないでしょう。人は悲しいときには、泣くし、嬉しいときには笑う、苦しいときには、苦痛を感じるし、楽な時には快さをもつであろう。
 こうして、人間の感情というものが、時間性や空間性(民族的相異や国民的相異など)にかかわらず共通するものではないのか。そういえば動物にも似たような感情があるなぁ。こうして世界は感情に満ちているのだなぁ。
 自分の人生行路はほかの誰かとどこがどう違うのか。体験は異なるとしてもそれに臨んで反応する人は多少の違いはあるだろうが同じような感情パターンを執ってしまう。そしてそれが記憶として保存される。その蓄積が人生の形だ。
 人生は想念の渦だ。その中で痛みに直面した時、ある者はその刺激が強すぎて持ちこたえることが出来ずに息途絶えてしまうこともあるし、ある者はその刺激を避けて逃避することもある。もちろんそれに耐え消化できるものは人生を全うしたものであろう。それでも体験に直面した時、持つ感情というものは、そうかわるものではない。消化するかできないかの違いで終焉を迎えるかどうかが決定する。
 自分においても振り返れば人生の分岐点にさしかかり、選択を迫られる時は一度や二度ではない。そこになんらかの要因が働いて、今の選択肢にしたがっている。選択肢がかわり、体験が変わったとしてもおそらく自分は自分であってそれ以上でもそれ以下でもない。
 そんな自分がこれから記録しょうとすることは、果たしてなんのためなのか。ある種の自己顕示欲(人の欲望にありがちな)なのであろうか。それとも、それ以外の何かがそうさせているのか。いずれにしても、このことは自分の心つまりは嬉しかったり、悲しかったり、そんな感情がベースにあって、それを表現をしょうとしていることはそれを痕跡としてとどめておきたいとする自認識からくるものであろう。
 いままで、何か機会があれば、こんな試みもしてみたらと思うことは度々あったけれど、具体的に話を進めていったことはあまりなかった。今回これを進めてゆくのは、自分自身が先に述べたように未来へ意識を向けて行く意欲より、過去やあるいは自分の周辺に思いを寄せて行くことの方が、何か自然体でいることができる道のような気もするからである。そしてそれが平穏な心で居続けることができるようなので、ここに自分が体験してきたことを綴ってみたり、私の周りのことを覗き見ながら、勝手に自分の思ったことを書き下ろしてみることにしょう。
 また、自分は九州の自然に育った。もちろん大自然の中でなどというような大それた言い方は出来ないが、内の子供たちが団地の中で育ってゆきながら体験する自然環境よりは少なくともワイルドで危険に満ちてスリルのある生活環境であった。今の子供らにそんな生活をさせることは、残念ながら九州にいても制限が多くて、昔のようではない。残念である。(もちろん時には死ぬか生きるかの瀬戸際の体験もあるので、同じ体験をしろとも言い難いのではあるが)
 そこで、ここではついでに、自分が体験してきた青少年期の出来事なども書きとめて、せめて子どもたちに残しておくことも考えている。自分は10代までは九州での生活をしていたが、20代以降は首都圏を中心に時には関西圏ときには東北や北陸あるいは中部地域にまで足をのばし、残念ながらまだ足を踏み入れていないところは北海道だけで、ほかの地域(四国、九州そして主な島々まで)は制覇している。また30代になると渡米することになり、なんだかんだしているうちに7年の歳月をその地で生活することになる。その地でも大陸横断そして縦断をするなどした。そんな生活の中で体験していったことごとも記録に残しておこう。
 さらに自分の同世代あるいはもう少し古い世代いわゆる団塊の世代という人々が、戦後高度成長期の日本の立役者となってきたわけである。今の日本はわれらが良かれ悪しかれ形づくってきた当事者だ。 日本を含むこれからの世界は願わくは、もう少し平安である社会であったらと思う。だからそんな願いも込めて、小言も言わなけりゃならないのかな。なにか言い続けていったら変化が起こるかもしれない。