2010年10月31日日曜日

TOFU(豆腐)

                                                                     豆腐(tofu)

potato,sweet potato,vegetable 35

 近年soybeanの自給率は大幅に落ちていると聞く。大半のsoybeanを使った商品は海外からのsoybeanを加工して、消費に当てている。日本では庶民のオカズとして、tofu豆腐はかかせないものであるが、これらの多くは海外からの輸入したsoybeanを加工して作ったものとして市場に出回っている。時々見かける割高の値がついているtofuは、国内産soybean使用と但し書きがついている。国内産のsoybean大豆加工食品を見つけること自体が簡単ではないくらい、国内産は限られたものとなっている。
 自分が幼いころ、tofuは今のようにしっかりパックにつめられて店頭に並ぶものはなかった。八百屋にゆくと、そこには四角い防水加工を施した箱に水が貯めてあり、tofuが浮かんでいた。1丁いくらみたいな値札が箱についていて、必要に応じて、店の人がすくってくれる。水を張った手桶にtofuを入れて家に持ち帰るのであった。
 自分はtofuは好きな食べ物のひとつであるが、幼いころはスルッとしたのど越しの絹ごしが好みであったが、近年は木綿ごしを食べる機会が多い。これはおいしいと思われる、tofuは地元の豆腐店の手作りで、品質のよいsoybeanということになると、国内産であって、どうしても割高になる。

2010年10月27日水曜日

potato,sweet potato,vegetable33    

 自分の郷里はgreen pepperの生産地として全国的に有名であることは先に述べた。昔green pepperは栄養豊富であるからと母親が子供らを説得して食べさせるということで、その苦さの故に嫌いな野菜の一つとして、あげられていた。しかし、最近は、大部分の品種はくせのない味に改良され、とても食べやすくなっている。最近のgreen pepperはサラダとして生で食べても甘みがあって、子供にも好まれるものが多い。また、色とりどりになって、食卓を飾る野菜として、重宝されている。
 昔母はgreen pepperをだしの入った醤油で炒めたものを食卓にならべることがあった。苦みは少しあったが、子供がきらう野菜の一つとして、嫌われたようには、自分はきらいではなかった。これもまた幼いころを思い出す料理の一つである。
 

2010年10月26日火曜日

切り干し大根(dried and cut radish)

  dried and cut radish,carrot tasted with soy sauce

potato,sweet potato,vegetable32    

 宮崎市内から南西にさほど離れていない地域では冬の畑に柵が組まれて、そこには刻んだradishが天日で干してある風景をいたる所にみかけることができる。これを切り干し大根(dried and cut radish)といい、この地域の食生活には欠かせない食材の一つである。
 宮崎平野は日本の中でも日照時間が最も長い地域の一つであるので、切り干し大根(dried and cut radish)をつくるには恵まれた地域であるが、とくにこの南西部は九州の屋根である、霧島連峰がちかくにあることもあり、霧島降ろしといわれる、秋から冬にかけて吹き下ろす乾燥した風が良質の切り干し大根(dried and cut radish)をつくる環境となっている。
 切り干し大根(dried and cut radish)は、太陽の光を浴びることで、糖化されて甘味がさらに増し、栄養価も増加する。骨や歯を丈夫にするカルシウム(calcium)は15倍、悪性貧血を予防する作用がある鉄分(iron)は32倍、代謝を促進するビタミン(vitaminB1・B2は10倍と、同量の大根と比べた場合、栄養価は非常に高い。
 また切り干し大根(dried and cut radish)には、食物繊維(fiver)が豊富に含まれている。食物繊維(fiver)は、コレステロールを体外に排出し動脈硬化を予防する作用や、便秘を改善し大腸ガンを予防する作用、美肌にも効果的に働く成分である。さらに食物繊維(fiver)は食後、胃や腸の中で水分を吸収し膨らみ、少量でも満腹感が得られるため、ダイエット(diet)にも効果的だ。他にも切り干し大根(dried and cut radish)には、二日酔いで弱った肝臓や胃腸を回復し食欲を増進させる作用や、保温作用により冷え性を予防する働きがあるといわれている。
 このように、野菜が不足しがちな冬の時期には、不可欠な栄養補給元として、様々に加工されて、食膳に並べられることになる。自分は煮しめの形でサトイモ(taro)やニンジン(carrot)などの根菜類とともにおかずとして出された切り干し大根を覚えている。これもまた、故郷の味として、親しんだもののひとつである。

2010年10月25日月曜日

桜島大根 

                   桜島大根(sakurajima radish)

2010年10月24日日曜日

potato,sweet potato,vegetable 31 

  昭和30年代はまだ終戦の波紋が収まらない時期であった。特に地方の田舎では、経済復興の影響はさほど急激には表れてきていないようであった。幼いころはすでに廃止されたはずの50銭玉を使って近くの雑貨屋で飴玉を1個買った記憶がある。
 地域の行事があるときに少し豊かな家庭が、ジュースを水筒に入れて家族で飲んでいる様子を横目で見るときがあった。自分の目にはその鮮やかな色のジュースがとても魅力的で、羨望の気持ちをじっと耐えていた。当時は普通水筒には水が入っているのであって、ジュースは入っていなかった。今でこそ店頭にありとあらゆるジュースが並んでいるが、このような状況を想像することは不可能であった。
 自分の郷里の周辺でも当時はsuger caneが栽培されていた。今でもOkinawaや奄美などの南方の島々でsuger caneは栽培され、加工して黒砂糖にしているが、当時は本土でも栽培がそれなりにさかんであったようだ。店頭にsuger caneが30cmくらいの長さに切って売っていた。
 食べる時は表面の固くてちょうど竹のようになった部分を端の方から歯で噛んでそのまま引っ張ると、中からjuicyな部分が表われてくる。一回り噛んで剥がしてしまうと、次はがぶりと口の中にほうりこみ、奥歯で何度も噛んでゆく。すると甘い液糖が口の中に搾り出されるのであった。
 時には歯の間に繊維がはさまって血がでるようなこともあったが、貴重なsweet資源として、好んで噛んでいた。

2010年10月23日土曜日

スイカ(water melon )

                                          スイカ(water melon)

potato,sweet potato,vegetable 30

日本には伝統的にfour seasons折々の行事がある。今でこそさほど季節感をもてない環境が多々できてしまっているが、南九州は夏の蒸し暑さが前提となっているので、家屋は夏いかに快適に過ごすかということを考慮したつくりとなっている。
 暑さを凌ぐために伝統的な家屋は風通しを良くする構造をしている。吹き抜けのために壁は障子で仕切られ、暑い時は開け放す。夜は蚊帳を吊るしたり、蚊取り線香を焚くことにより、虫刺されを防いだ。床は基本的に高床式であり、湿気を防ぎ、地面からの冷気をほどよく取り込むことが出来た。エアコン等の器械は使わず、基本は団扇で風をおこす。ときにiceを削りカキ氷にして食べたり、またwater melonを井戸で冷やしておき、ほどよく冷えたところで、water melon割りをしたりしてfamily分けて食べるのである。
  夏の風物誌として描かれる原風景は九州の夏にあるのではないだろうか。近年の密封された家屋の構造では暑さを凌ぐために必然的にエアコンを取り付けることになる。九州の夏は現代建築との間になにか隔たりをもたらしてしまっているように思う。

2010年10月22日金曜日

potato,sweet potato,vegetable29

 郷里は平凡な田舎という印象がある。川があり、山があり、畑や田んぼがあり、農家があってcowpigchickenを飼っているところもある。父親の仕事の関係で、県内を移動することがあったが、どこも大都会の生活とは、かけ離れた素朴な生活の環境であった。
 春になると、畑ではレンゲの花やrape blossomsをみることができた。レンゲの花は花弁のところに密を持っていて、honey beeが好んで蜜を集めにやってきた。自分たち子供らも時にはレンゲ畑に寝転んで、honeyを舐めるのであった。rape blossomsはそこからrapeseed oilを集めるために栽培されていたが、菜の花の栽培されている菜の花畑は一面の黄色いじゅうたんのようになる。
春は短い間であるが、ピンク色のcherry blossomsが咲く季節でもあるので、これらが春の陽気の中で美しく映えるのは強い印象として、残っている。自分にとっての郷里の記憶の中に深く占められているである。

2010年10月21日木曜日

potato,sweet potato,vegetable 28

 今年はchestnutが豊作なのだろうか。昨年に較べても出荷量が多いように思う。今年の夏の異常気象はこの作物にとっては、よい条件であったのだろうか。
 chestnutは縄文時代にはかなり日常的に食べられていたと聞く。南九州には縄文時代の人々が集落を作っていたという遺跡がある。そこからchestnutを栽培していたことを裏付ける痕跡が発見されている。貝塚なども発掘されているので、当時の食事が海のもの山のものと結構バラエティに富んだものであって、米作が始まった弥生時代以前でも結構文化的な生活があったのように推測される。
 chestnutについては、自分の持病であるkidney stonetreatmentによいとherbal medicineの資料にあった。しかしchestnutの実を食べるのが良いというのではなく、chestnutを煮るときに出てくるscumが石を流す効能があるというものであった。
 たしかに数年前であっただろうか。病院での石の破砕施術をしても効果のなかったところをこの処方箋にしたがって苦いchestnutscumKorean ginsengとを併用して、煎じて飲んだところ流れ出たという体験がある。chestnutのアクがどこまで効果の原因になったかは正確にはわからないところもあるが、試してみる価値はあるのではないだろうか。

2010年10月20日水曜日

すき焼き(sukiyaki)

                                                                すき焼き(sukiyaki)

Potato, sweet potato, vegetable 27

 南九州における畜産業がダメージをうけることは、産業全体に対して大きな影響を与えてしまう。今年の春に発生した口蹄疫は大きな波紋として、現時点においても影響を与えている。口蹄疫はその原因がはっきり特定できていないということから、またいつ発生するかわからないため、今でも消毒作業が日常的なものとしておこなわれている。
 この疾病は蹄が二つに分かれている動物にしか感染しないという。畜産物として豚、牛が対象となる。今回の感染ルートはいまだ特定できず、中国から輸入された家畜飼料に菌が混じっていたのではという説があるがこれも決定されたものではない。
もしかして野生動物から感染したのではないかということも考えられる。以前、鳥インフルエンザが流行し、多大な被害を被っているが、この感染ルートは渡り鳥ではないかといわれている。家畜の場合は管理をする道もあるが、野生動物にとっては人間の作った国境とか境界というものは適応されない。
現代では国境はあるが、交通の発達により、容易に世界中を往来することができる環境となっている。最近は抗生物質が全く利かない新種の菌が発見されているが、これは国際交流の活性化とともに人と人が容易に接触する環境ができて発生したものである。

2010年10月19日火曜日

potato_sweet potato_vegetable 26

 戦中戦後の食糧事情が劣悪化していた時代、人々は食料調達に苦悶していたことを聞く。sweet potatoはそのような中でprecious food sourceとして栽培されていた。
当時のことを知る人は『だご汁』を食べていたと言う。九州では今でもそれをアレンジして現代風の料理として、食べさせてくれる店もあるが、当時のものをそのまま再現した場合には商売としては成り立たないであろう。
 当時の『だご汁』は名前の如く団子の入った汁ということで、団子はwheatmilletを挽いて作った粉を半練りの状態にして少々の塩を混ぜて湯の中に入れて固める。これをvegetablesと一緒に煮込んで作る。
 ただ当時焼け野原と化した土地からはvegetablesをせいぜい調達する程度であって、現代のように形が悪いとか、少しキズがはいっているから、店頭に並べられないというようなことは有り得なかった。口に入れられるものがあることで十分であって、栄養失調という状況は社会現象として、日常的なものであった。
 自分が小学校のころは戦後10数年がすぎていたが、学校給食で栄養補給のためのskim milkがメニューとして必ずでていた。アメリカでは家畜の飼料として使われている物と聞いて、しばし愕然としたことを覚えている。

2010年10月18日月曜日

栗きんとん(sweet potato mixed chestnut)

                                          栗きんとん(sweet potato mixed chestnut)

potato,sweet potato,vegetable 25

 自分の好きなsweet potatochestnutを入れて出来たものを『栗きんとん』(kuri-kinton)と呼ぶ。この場合下地に蜜を加えて、作ることになるので、natural sweetという段階から加工されたお菓子というイメージが強くなる。
 特にchestnutの部分はchestnutのいがを取り外すことから始まって、syrupに浸して保管しておく作業など結構手がかかってしまう。それで通常は既製品を使って済ましてしまうのだが、当時の既製品は値が張るものであったので、『栗きんとん』(kuri-kinon)を食べることはめったになかった。

2010年10月17日日曜日

肉じゃが( Japanese styled mixed potato and meat )

                                           『肉じゃが』(Japanese styled mixed potato and meat)

potato,sweet potato,vegetable 24

 自分にとってのお袋の味を考えてみた。確かにCURRY RICEが食卓に上ることはそれなりに、あったので、懐かしさがないことはない。でも何か確信的なものといった場合それではないような気がする。 今自分がPOTATOやSWEET POTATOが好きな背景には『いも』に絡んだ料理があったのは間違いないと思う。
 それでもしかしたら『肉じゃが』がそれなのかもしれない。少し曖昧な感じがあるのは、思い出として残っているというには、さほど食べる機会が多かったものではないからだ。それでも自分にとっては、好物として親しみのある料理として記憶の中にあるのである。
 『肉じゃが』はPOTATOがほくほくしているものより、JUICYなもののほうが材料としては適している。沖永良部島のPOTATOはJUICYなもので、おいしいと思うのは自分の幼少の時に食べた『肉じゃが』の中にあったPOTATOの味に由来しているのかもしれない。

2010年10月16日土曜日

One of the typical japanese family food----curry rice

                                   typical japanese curry , pork and potato in it

Potato, sweet potato, vegetable 23

 昔はお袋の味といえば、味噌汁というのが、定番であった。しかし近年になると食生活の多様化に伴ってこれが必ずしも定番といえなくなった。
日本の固有のアレンジによって生み出されたカレーライスは、正にその典型かもしれない。カレーの起源はインドあたりの暑い国にあると思うが、そんなカレーは日本に伝わって来て味覚において、相当に変化してしまった。中に入れる具によって様々な個性が現れてくるので、beef curryの定番から、pork curry ,vegetable currysee food curryなど様々なアレンジがなされていった。また隠し味にcoffeeとかソースをいれるとか一工夫して、個性をだしているものも多々世の中に出回っているようだ。
それでお袋の味として、カレーライスがあげられるようになっても、おかしな話ではない。終戦後カレーライスを日頃から食べ慣れてきた世代も父母さらには祖父母にまでなっている今の時代は子供らが日常の味として、慣れ親しんでいるというのも自然なことかもしれない。

2010年10月15日金曜日

potato ,sweet potato ,vegetable 22

鹿児島県には離島が多くあり、そこでは島特有の産物が生産されている。もちろんsweet potatoについては奄美大島などの島では上質の物が生産されているが、以外なのは沖永良部島ではとても良質のpotatoが生産されているということである。
Potato生産地のイメージとして日本で言えば北海道の広大な土地に生産される『男爵いも』というのが先に来る。もちろんUSAIdaho などは日本でもpotato chipsの名で有名である。
そういうイメージからすると、南の小さな離島でpotatoが生産されることは考えにくい話ではあるが、実際そこで生産されるpotatoは極めて美味である。食感からすると北海道のpotatoに優るとも劣らないものである。結構potatoとして濃厚な味わいがある。
南の島々の土壌はpotato生産には不適合なものらしいのだが、沖永良部島は何故か赤土で覆われていることでpotato生産に適しているそうだ。
Potatoの場合は肥沃な土地が良い収穫の条件として必要であることを考えると沖永良部島は鹿児島以南の諸島のなかでは異例という場所である。

2010年10月14日木曜日

Potato, sweet potato, vegetable 21



 九州は農林水産業が盛んであることを以前の文章の中で指摘した。そしてその中でsweet potatoについて項目を絞って話を進めている。今回もsweet potatoについての話だ。
 美味しいsweet potatoを最近見つけた。自分が知らなかっただけで、知っている人は昔からking of sweet potato として好んで食べたようである。『安納いも(an-non-imo)という品種でroasted sweet potatoにして食べると最高にうまい。おそらくsweet potatoを品種改良してできたものなのだろうが、中身が焼くとオレンジ色の鮮やかなものとなる。かなり糖度が高く砂糖を調理の時に加えなくても充分に甘い。だからお菓子の材料として加工するよりそのまま焼いて食べるほうが美味しいと思う。
 『安納いも』はサツマイモの品種なので多分どこでも栽培できると思うが、鹿児島以南の島で出来た物は最高に美味しく、販売されているものも値段が高い。ただそれに似合う美味しさがある。

2010年10月13日水曜日

how to make sweet potato in detail (English explanation)

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Sweet, Sweet potato, Vegetable 20

先日、八百屋を覗いてみるとautumnroot cropsが並べられていた。今年は異常気候の影響で、vegetablesが高騰している。
lettucecabbageなどの葉野菜はsummerの連日の猛暑でなえてしまって、元気がない。riceの収穫はrainy seasonには確か、今年は豊作になるだろう。と予測されていたように思う。ところが、夏に猛暑日が続くことでricequalityが落ちてしまったということであった。半透明の米粒に白く変色した部分が混じると値が下がってしまうらしい。
ちょっとした、気象の異常が収穫に相当影響を与えてしまうのが、市場に出回る野菜類の持つ繊細な事情である。日本国内での食糧自給率は先進諸国の中では最下位に属する。そのような中で国内において生産される稀少なvegetableもこのように異常気象の影響を諸にうけてしまうのである。先行きが思いやられる日本の抱えた事情の一つである。
そのような中で sweet potatoは今年も多く出回っている印象を受ける。気象の変化に結構順応できる品種である印象を持つ。root cropsの食糧源としての見直し、これは好みの問題ではなく真剣に論議されるべき課題なのかもしれない。

2010年10月12日火曜日

how to make aweet potato

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potato_sweet potato_vegetable19

sweet potatoにも最近色々な種類があることに興味があり、食べ比べもしている。
子供のころの思い出としてあるのは、母の作る『きんとん』がある。
母の作るこのdesertはサツマイモを加工したものであった。aweet potatoを蒸す。蒸し終わると次に皮を剥ぎます。その後満遍なくすりつぶします。蒸し過ぎた場合は水っぽくなるので、そうならないように蒸す途中では箸を使って上手く刺さるようなら次の加工に問題ないと判断して蒸すのをそこで留めておきます。
擦りつぶした芋に先にsugerで甘く煮たappleの小片を加えます。butterを加えて、これらをこねます。このときに母は食紅を加えて彩りを良くしていました。
後は型を使って好みの形にするか。布巾を使って丸く形を整えるかで終了です。
最近のaweet potatoを使ったお菓子では表面に焼き目をつけるためにovenを使って焼き上げるというものもあります。中にはappleはいれていないようです。

2010年10月11日月曜日

potato_swet potato_vegetable 18

日本は半世紀を待たず経済大国として経済的発展をなした。第二次世界大戦の敗北によって焦土と化した日本列島を当時のある為政者はこの国がたちなおるのに100年以上を有するとまで言わせた状況であった。
しかしこのような繁栄がもたらされた背景には奇跡のようなことが折り重なっていた。このような国の食料事情はどうだったのだろうか。世界大戦の時代は国民の生活は豊かではなかったが、都会の人々は食料を求めて私財を携えて、田舎へと行き物々交換もしていた。
riceは主食として、必需品であったが、敗戦とともに焦土となった国土からは稲作で得られる米は充分国民に配給できるほどの量は確保出来なかった。
南九州ではsweet potatoは既に江戸時代のころから、飢饉に強い食物として、栽培されていた。戦中戦後の枯れた国土にはsweet potatoはまさに食料源として、不可欠のものであった。

2010年10月9日土曜日

potato_sweet potato_vegetable 17

 南九州はsweet potatoの産地として有名であることは、知られていた。sweet potatoが良く育つ理由は土壌がシラスであることにおそらく由来する。シラスというのはvolcanic ashesが土壌となったものである。大昔、桜島が大噴火してその大量のvolcanic ashes大地に降り注いだ。シラスは黒土や赤土に較べると養分が極端に少なく通常のvegetableは育ちにくい。加えて水はけが悪く、大雨でも降るとシラスで出来た土地は直ぐに崖崩れの災害をもたらす。
 江戸時代のころは諸国の大名の評価は石高で決まった。薩摩藩は領土は大きかったが、大地がシラスで覆われていたriceでは思うように実績をえることができなかった。従って多くの庶民は自分たちの食糧を確保することができなかった。武士ですら事情はそう変わらなかった。薩摩の武士を『芋侍』と称した。
 江戸時代に起こった飢饉は庶民に大きなダメージを与えた。その時に養分の乏しい
シラス大地でも育つことのできるsweet potatoは貴重な食糧資源となった。

2010年10月8日金曜日

potato_sweet potato_vegetable 16

 南九州はイモ(POTATO)といえば、多くの場合sweet potatoのことをいう。特に鹿児島(薩摩)は、sweet potatoのことを『サツマイモ』と呼ぶように、その産地として有名である。このsweet potatoを使った芋焼酎は全国に多くのファンがいる。
 サツマイモはその由来が、大陸にあったものなのか『カライモ』という言い方がある。沖縄を始めとする南の島々の人々は『サツマイモ』という表現を嫌う傾向にある。かって沖縄が琉球と言われた時代、薩摩藩は南の島々の農産物例えば『sugar cane』などを薩摩藩の財政資源として、強引に徴収していった経過があり、元々薩摩にあったわけではない『カライモ』を『サツマイモ』と名称を変更することに島の人々は強い反発があったのではないかと思う。名称の変更は搾取の象徴として忌み嫌われたものと思う。

2010年10月7日木曜日

potato_sweet potato_vegetable

 暑かった夏が過ぎ、急に朝晩が冷えるようになった。秋の到来が来て嬉しいのはsweet potatoが市場にたくさん出回ることである。sweet potatoには小学校時代の記憶を蘇らせる力がある。
 宮崎はagricultureを主要産業とする農業県であることは先に紹介した。自分の家が農家であるわけではないが、周辺がagricultureと深く関わっている環境なので、productsと何かと関わってくる。宮崎市内から西の地域は自分の出生地であるが、ここは全国でも有数のgreen pepperの産地である。
そのわりにはこのことを知ったのは、随分あとからの話で、自分としては近くのfieldでとれたであろうsweet potato がいつも関心のゆくところであった。特に石焼き芋(sweet potatoes baked in hot pebbles)はとても魅力的であり、この嗜好性は今もかわることなく、続いている。
 石焼き芋(sweet potatoes baked in hot pebbles)に留まらない。 たとえばsaladを店頭に陳列してある、様々な中から一つ選ぶとするなら、まずpotato salad ということになる。また肉じゃがは母の味という風に思う。 こんな好みから自分はpotato lover であることを認めざる負えない。
 食は生活全般に関わってくるものと考える。私の人生に関わってきたpotatoとの関わりをそしてvegetableについて触れて行きたいと思う。

いもがら閑話14

 小学校4年生の頃の記憶があまり、残っていない。印象的な出来事が少なかったからか、それとも自分自信の心の状態が何らかの理由で閉ざされていたのか、どちらかであったかと思うが、あえて深く探ってゆくと内面的な要素が大きいように思う。3年生のころに受けた外から来る刺激は、時間と共に深く心のなかに溶け込み、とりあえずの順応という形で性格のかたちで現れてきた。
 また自分の奔放さとは裏腹に肉体は毒素によって病気がちな生活を送るようになった。この頃は、季節の代わり目には、すぐ風邪を引くとか、目とか耳とか炎症を引き起こすとか、毎日が憂鬱になってしまうような状態が続いた。
 こうして性格は内向的な方向へと形作られていった。そして、仮に印象的な事があったとしても結果的には記憶のかたちにまで定着していかなかったというのが、この期間の特徴ではないかと思う。

2010年10月5日火曜日

いもがら閑話13

いもがら閑話13
 南九州は農林水産業において基本的に成り立っている地域である。それ故自然の猛威から発生する災害は住民に大きなダメージを与える点においては、他の地域と比較しても、決して例外ではないと思う。
ただ、温暖な気候は人々の性格や考え方に影響を与えているのか、大方の住民は順応という形で生活を維持しているように思う。経済的な面からみれば、南九州の各県は最下位の付近に並んでいる。地方の中の地方の故ということであろうか。
しかし、昔自分が東京や大阪に住んでいたころの生活と比較すると、欲を張らなければ、かえって住みやすいのではないかと思う。大昔人々は物と物の交換で生活物資を得たと言うが、そこまで極端ではないにしても田舎では人と人の交流のなかである程度の生活の糧を得ることができる。
都会ではお金が交流の間に介在することで社会を成り立たせるようになっている。food stockを得ようと思えば、店で購入するというのが通常である。もし、物資が不足すると当然価格は上昇する。品質が落ちても食糧であれば、値が張っても必ず確保しなければならない。こうして、都会では物価に生活が直接ダメージを受けるようになる。
大阪に住んでいるころ、riceが極端に不作で、東南アジアからriceを緊急輸入して販売していた時があった。取引業者の買占めが絡んでいたようでもあるが、大阪ではdomestic riceの値段は極端に高騰し、輸入米を買う以外には米を確保することができなかった。輸入米の値段は通常のdomestic riceより高かったことを覚えているが、日本人の口にはとても馴染めない代物であった。
その頃のことをこちらに移り住んだ後、何かの機会に話したことがあるが、だれも信じられないという反応をした。riceの不足は全国的なものであったが、田舎では国産米をその時期にも確保出来て食べていたということである。

2010年10月4日月曜日

いもがら閑話12

 南九州は農畜産物の宝庫である。最近でこそ口蹄疫で宮崎の畜産がクローズアップされるようであるが、つい最近のこととして、鳥インフルエンザで養鶏が壊滅的な打撃を受けたことはまだ記憶に新しい。飼育している数が適当な数ではないので、いざ事が起これば、ダメージは取り返しがつかないほど大きくなる。
 それにしても、最近の傾向として、災禍は急速に大きくなって収拾するのが大変難しくなるようだ。勝手南九州は台風災害が多く、台風銀座と言われるほどに、夏から秋にかけて接近そして上陸というパターンがあった。被害も大きかったが、最近の災害と較べると自然災害としての側面が強かったように思う。
 それに比べると最近のケースは、台風一つとって見ても2次災害つまり人為的な問題がからんだもの、例えば堤防の不整備が原因での決壊とか、鉄砲水が予測出来なくて、災害に巻き込まれるとか、自然との向き合い方が何か以前より、複雑で難しくなっているのではないかと思う次第である。
 今までの曖昧にしてきたものの付けが回ってきたのではないかと思う。地域の働く人の努力が無下にされることのないよう、はっきりすべきものははっきりとさせ、何事にも問題が大きくならないような政策が必要ではないかと考える。

2010年10月3日日曜日

いもがら閑話11

 新天地は九州山地の盆地の中にあった。南九州の背骨にあたる韓国岳や高千穂の峰を一望することができる。
四季折々に山々の見える風景は変化をした。春から夏にかけてはツツジが山の至る所で咲き、ピンク色になっているのが見える。夏の山々は深い緑色にかわる。秋になると空気が清涼になり、山々は青みが強くなってくる。冬が近づくと積雪するので、それまで遠くに見えていた山は距離が変わるわけでもないのに、ぐっと近くにそびえ立っているように見える。高千穂の峰は谷に当たるところは春先まで残雪があって切り立った山肌を印象づけるものであった。このような山々の様子の変化を学校からいつも見ることができた。南九州の山々の見える風景は自分に身近であったこともあり、今も心のなかに深い印象として残っている。
秋口に韓国岳に遠足で登山することがあった。快晴の日に山頂から見える周囲の光景はこの世のものとは思えない神秘的なものであった。深い青い色の空気の層を通して見える風景はまるで海の中を覗いているような不思議な感じであった。山頂から下方にはるかに小さく見える田畑や森や川や建造物は美しい宝石でも見ているような気がして、しばし我を忘れる瞬間であった。
鹿児島方面に目をやると、桜島がはるか遠方で噴火して白い煙をあげているのが見える。原生林の中にお椀を逆さにしたような形の火口湖が点在し、マグマの影響か、水の色が時々に変化してゆく。
こんな神秘的な風景はめったに見られるものではないと思う。まさに筆舌に尽くし難いというのは、こんな風景かと思う。

2010年10月2日土曜日

いもがら閑話⑩

 小学校時代に親しくしていたもう一人の子供がいた。友達としてはなんとなく少し距離があったので、今思うに級友という程度の付き合いだったのかもしれない。彼は医者の息子であった。誕生日が同じで、左ききであることも共通点であった。
ど田舎でもあり、世の中全体がまだ高度成長期にあたり、貧しさはまだ一般的なものであった。そのような時代にあって彼の家は両親とも医者で裕福であった。家には女中さんも居た。普段はその女中さんが彼や家のことを世話していたようだ。
 彼は近くの子供らと外で遊んでいて、3時になると「おやつですよ。」とその女中さんに呼ばれて帰っていった。連れの子供らが多くいると彼が手作りのおやつを家で食べている間、駄菓子の袋が配られていた。子供らはそれを目当てに遊びにくるという節もあった。 
 彼は親から英才教育を受けていたようだ。学校の音楽室では、彼のピアノの生演奏を良く聞いていた。ピアノの演奏は自分の生活とあまりにかけ離れていて、関心はするものの別次元のこととして見ていた。
絵画も先生について勉強していたようだ。ある時彼と一緒に外で写生する機会があった。題材は一本の木を描くというものであった。二人で同じテーマに臨んでいたのであるが、近くを通ったおじさんが彼の絵のタッチと自分の絵のタッチの違いを見比べて、彼の絵を賞賛するわけで、自分は心の中で木はゴツゴツとして豪快なのがいいのだと自分なりの理屈を作ってその場を凌いでいた。しかし実際は彼のように絵が描けたらいいのにという羨望を持っていた。当時の我が家の経済状態は教師をしていた父の安月給でなんとかなりたっていたものであって、習い事をするなどという発想そのものがなかった。
彼には色々な面で適わないと思っていながらも一緒に遊ぶ機会は多かった。一つ自分が優っているなと思ったのは体力であった。野を駆け回っていた自分は同年代の子と比較すれば格段の運動能力に優っていたように思う。瞬発力、走力、腕力等周りから一目おかれるような水準があったようだ。一面彼はひ弱なところがあって、そういうことでお互いは補い合っていたのではないかなと勝手に思っている。
中学になると父の転勤があって引越しをしたこともあり、付き合いは途切れてしまったが、彼はその後医学部に進み家業を継いだようである。


2010年10月1日金曜日

いもがら閑話⑨

小学校3年の時また一つ記憶に深く刻まれる出来事に遭遇している。ちょうど日本は東京オリンピックが開催された年であった。日本の高度成長期に突入するきっかけとなった国をあげてのイベントは、田舎にもそれなりの波及効果をもたらして行ったものである。
オリンピックの開催をカラーテレビで見ようという流行は、当時としては画期的な格安テレビ、ソニーの13型トリニトロンカラーテレビが発売された。
そこで新物好きの父は大枚をはたいて我が家でこのテレビを購入した。当時で9万円くらいと記憶しているが、物価水準からすると、今なら50型の液晶ビジョンを買うようなあるいはそれ以上のものを買うような高い買い物ではなかったかと思う。カラーテレビの魅力が決断を促したのではないだろうか。
ちなみに新物好きの性格は祖父譲りなのか、父は他にも何か新しい器械が現れると金もないのに購入していた。そのころを前後するが、祖父が購入したらしい大きなオープンリール式のテープレコーダーを祖母の家で見たことがある。かなり、初期のものではなかっただろうか。今あれば稀少価値のある骨董品ではないかと思う。そんな祖父の姿をみてきたのであろう。父は職業として工業高校の機械科の教諭になっていた。自分も父の姿を見てきたので、今でも、新しいガジェットを見つけると、強い興味を覚えて可能なら手元におきたいなどと思ってしまうし、構造はどうなっているのかと調べてみたくなるのである。
話は戻るが、アジアで初めてのオリンピック開催は敗戦から立ち直っていった日本の底力を象徴するかの出来事で、テレビのニュースを通して東京では環状線高速道路の建設が急ピッチで進められているということが報道されていたし、至るところで外国からの来客を迎えることを前提に建設ラッシュが続いていたことを覚えている。
そのように世の中が変化してゆく中でも、自然の脅威というものは、それとは全く別問題として突然として、やってくる。人間が技術の粋をもって築きあげた建造物であったとしても、自然の猛威のまえには、ほとんど無力に等しい。
自分がこの時に体験したものは、『えびの大地震』と呼ばれるものであった。えびのの近くの京町という地域が震源地となる、直下型の大地震であった。マグニチュード7.9と記憶している。震度で5.8位だったと思う。
それは小学校での授業の最中に起こった。まず遠くから聞こえる爆発音から始まった。ドカーンという異音に驚いていると、地面が縦に小刻みに揺れ始め、急激にまるで機関銃でも撃った如くに、ババババババという爆音とともに地面も建物も揺れ、居ても立ってもおられないような状態になってしまった。
地震の時はまず机の下で身を守れと普段から指導は受けていたものの、振動があまりに激しくて、そんな余裕もないまま身をなるがままに任せているしかなかったというのが実際であった。そんな激しい揺れが収まると、先生が「皆、急いで外に出ろ」と叫んだ。その命令に従って大急ぎで外へ走っていった。校庭には大きな木が一本あったが、そこを避難場所として移動している途中、今度は波は横揺れとなり、地面がまるで横向きにどこまでもどこまでも移動してゆくのではないかという状況になった。地面が揺れるということがどれほど恐ろしいものなのか、肌身で感じた瞬間であった。足元は固定しているということを信じて、普段生活しているわけで、それが根本から崩れて行くときの動揺はどう表現したらよいのだろうか。絶望的ともいえる心境であった。
時間の経過からすれば、そんなに長い時間ではなかったのかもしれないが、その肌で感じた地震体験は、心の深い所にどうしようもなく刻まれている。