2010年10月7日木曜日

potato_sweet potato_vegetable

 暑かった夏が過ぎ、急に朝晩が冷えるようになった。秋の到来が来て嬉しいのはsweet potatoが市場にたくさん出回ることである。sweet potatoには小学校時代の記憶を蘇らせる力がある。
 宮崎はagricultureを主要産業とする農業県であることは先に紹介した。自分の家が農家であるわけではないが、周辺がagricultureと深く関わっている環境なので、productsと何かと関わってくる。宮崎市内から西の地域は自分の出生地であるが、ここは全国でも有数のgreen pepperの産地である。
そのわりにはこのことを知ったのは、随分あとからの話で、自分としては近くのfieldでとれたであろうsweet potato がいつも関心のゆくところであった。特に石焼き芋(sweet potatoes baked in hot pebbles)はとても魅力的であり、この嗜好性は今もかわることなく、続いている。
 石焼き芋(sweet potatoes baked in hot pebbles)に留まらない。 たとえばsaladを店頭に陳列してある、様々な中から一つ選ぶとするなら、まずpotato salad ということになる。また肉じゃがは母の味という風に思う。 こんな好みから自分はpotato lover であることを認めざる負えない。
 食は生活全般に関わってくるものと考える。私の人生に関わってきたpotatoとの関わりをそしてvegetableについて触れて行きたいと思う。

いもがら閑話14

 小学校4年生の頃の記憶があまり、残っていない。印象的な出来事が少なかったからか、それとも自分自信の心の状態が何らかの理由で閉ざされていたのか、どちらかであったかと思うが、あえて深く探ってゆくと内面的な要素が大きいように思う。3年生のころに受けた外から来る刺激は、時間と共に深く心のなかに溶け込み、とりあえずの順応という形で性格のかたちで現れてきた。
 また自分の奔放さとは裏腹に肉体は毒素によって病気がちな生活を送るようになった。この頃は、季節の代わり目には、すぐ風邪を引くとか、目とか耳とか炎症を引き起こすとか、毎日が憂鬱になってしまうような状態が続いた。
 こうして性格は内向的な方向へと形作られていった。そして、仮に印象的な事があったとしても結果的には記憶のかたちにまで定着していかなかったというのが、この期間の特徴ではないかと思う。

2010年10月5日火曜日

いもがら閑話13

いもがら閑話13
 南九州は農林水産業において基本的に成り立っている地域である。それ故自然の猛威から発生する災害は住民に大きなダメージを与える点においては、他の地域と比較しても、決して例外ではないと思う。
ただ、温暖な気候は人々の性格や考え方に影響を与えているのか、大方の住民は順応という形で生活を維持しているように思う。経済的な面からみれば、南九州の各県は最下位の付近に並んでいる。地方の中の地方の故ということであろうか。
しかし、昔自分が東京や大阪に住んでいたころの生活と比較すると、欲を張らなければ、かえって住みやすいのではないかと思う。大昔人々は物と物の交換で生活物資を得たと言うが、そこまで極端ではないにしても田舎では人と人の交流のなかである程度の生活の糧を得ることができる。
都会ではお金が交流の間に介在することで社会を成り立たせるようになっている。food stockを得ようと思えば、店で購入するというのが通常である。もし、物資が不足すると当然価格は上昇する。品質が落ちても食糧であれば、値が張っても必ず確保しなければならない。こうして、都会では物価に生活が直接ダメージを受けるようになる。
大阪に住んでいるころ、riceが極端に不作で、東南アジアからriceを緊急輸入して販売していた時があった。取引業者の買占めが絡んでいたようでもあるが、大阪ではdomestic riceの値段は極端に高騰し、輸入米を買う以外には米を確保することができなかった。輸入米の値段は通常のdomestic riceより高かったことを覚えているが、日本人の口にはとても馴染めない代物であった。
その頃のことをこちらに移り住んだ後、何かの機会に話したことがあるが、だれも信じられないという反応をした。riceの不足は全国的なものであったが、田舎では国産米をその時期にも確保出来て食べていたということである。

2010年10月4日月曜日

いもがら閑話12

 南九州は農畜産物の宝庫である。最近でこそ口蹄疫で宮崎の畜産がクローズアップされるようであるが、つい最近のこととして、鳥インフルエンザで養鶏が壊滅的な打撃を受けたことはまだ記憶に新しい。飼育している数が適当な数ではないので、いざ事が起これば、ダメージは取り返しがつかないほど大きくなる。
 それにしても、最近の傾向として、災禍は急速に大きくなって収拾するのが大変難しくなるようだ。勝手南九州は台風災害が多く、台風銀座と言われるほどに、夏から秋にかけて接近そして上陸というパターンがあった。被害も大きかったが、最近の災害と較べると自然災害としての側面が強かったように思う。
 それに比べると最近のケースは、台風一つとって見ても2次災害つまり人為的な問題がからんだもの、例えば堤防の不整備が原因での決壊とか、鉄砲水が予測出来なくて、災害に巻き込まれるとか、自然との向き合い方が何か以前より、複雑で難しくなっているのではないかと思う次第である。
 今までの曖昧にしてきたものの付けが回ってきたのではないかと思う。地域の働く人の努力が無下にされることのないよう、はっきりすべきものははっきりとさせ、何事にも問題が大きくならないような政策が必要ではないかと考える。

2010年10月3日日曜日

いもがら閑話11

 新天地は九州山地の盆地の中にあった。南九州の背骨にあたる韓国岳や高千穂の峰を一望することができる。
四季折々に山々の見える風景は変化をした。春から夏にかけてはツツジが山の至る所で咲き、ピンク色になっているのが見える。夏の山々は深い緑色にかわる。秋になると空気が清涼になり、山々は青みが強くなってくる。冬が近づくと積雪するので、それまで遠くに見えていた山は距離が変わるわけでもないのに、ぐっと近くにそびえ立っているように見える。高千穂の峰は谷に当たるところは春先まで残雪があって切り立った山肌を印象づけるものであった。このような山々の様子の変化を学校からいつも見ることができた。南九州の山々の見える風景は自分に身近であったこともあり、今も心のなかに深い印象として残っている。
秋口に韓国岳に遠足で登山することがあった。快晴の日に山頂から見える周囲の光景はこの世のものとは思えない神秘的なものであった。深い青い色の空気の層を通して見える風景はまるで海の中を覗いているような不思議な感じであった。山頂から下方にはるかに小さく見える田畑や森や川や建造物は美しい宝石でも見ているような気がして、しばし我を忘れる瞬間であった。
鹿児島方面に目をやると、桜島がはるか遠方で噴火して白い煙をあげているのが見える。原生林の中にお椀を逆さにしたような形の火口湖が点在し、マグマの影響か、水の色が時々に変化してゆく。
こんな神秘的な風景はめったに見られるものではないと思う。まさに筆舌に尽くし難いというのは、こんな風景かと思う。

2010年10月2日土曜日

いもがら閑話⑩

 小学校時代に親しくしていたもう一人の子供がいた。友達としてはなんとなく少し距離があったので、今思うに級友という程度の付き合いだったのかもしれない。彼は医者の息子であった。誕生日が同じで、左ききであることも共通点であった。
ど田舎でもあり、世の中全体がまだ高度成長期にあたり、貧しさはまだ一般的なものであった。そのような時代にあって彼の家は両親とも医者で裕福であった。家には女中さんも居た。普段はその女中さんが彼や家のことを世話していたようだ。
 彼は近くの子供らと外で遊んでいて、3時になると「おやつですよ。」とその女中さんに呼ばれて帰っていった。連れの子供らが多くいると彼が手作りのおやつを家で食べている間、駄菓子の袋が配られていた。子供らはそれを目当てに遊びにくるという節もあった。 
 彼は親から英才教育を受けていたようだ。学校の音楽室では、彼のピアノの生演奏を良く聞いていた。ピアノの演奏は自分の生活とあまりにかけ離れていて、関心はするものの別次元のこととして見ていた。
絵画も先生について勉強していたようだ。ある時彼と一緒に外で写生する機会があった。題材は一本の木を描くというものであった。二人で同じテーマに臨んでいたのであるが、近くを通ったおじさんが彼の絵のタッチと自分の絵のタッチの違いを見比べて、彼の絵を賞賛するわけで、自分は心の中で木はゴツゴツとして豪快なのがいいのだと自分なりの理屈を作ってその場を凌いでいた。しかし実際は彼のように絵が描けたらいいのにという羨望を持っていた。当時の我が家の経済状態は教師をしていた父の安月給でなんとかなりたっていたものであって、習い事をするなどという発想そのものがなかった。
彼には色々な面で適わないと思っていながらも一緒に遊ぶ機会は多かった。一つ自分が優っているなと思ったのは体力であった。野を駆け回っていた自分は同年代の子と比較すれば格段の運動能力に優っていたように思う。瞬発力、走力、腕力等周りから一目おかれるような水準があったようだ。一面彼はひ弱なところがあって、そういうことでお互いは補い合っていたのではないかなと勝手に思っている。
中学になると父の転勤があって引越しをしたこともあり、付き合いは途切れてしまったが、彼はその後医学部に進み家業を継いだようである。


2010年10月1日金曜日

いもがら閑話⑨

小学校3年の時また一つ記憶に深く刻まれる出来事に遭遇している。ちょうど日本は東京オリンピックが開催された年であった。日本の高度成長期に突入するきっかけとなった国をあげてのイベントは、田舎にもそれなりの波及効果をもたらして行ったものである。
オリンピックの開催をカラーテレビで見ようという流行は、当時としては画期的な格安テレビ、ソニーの13型トリニトロンカラーテレビが発売された。
そこで新物好きの父は大枚をはたいて我が家でこのテレビを購入した。当時で9万円くらいと記憶しているが、物価水準からすると、今なら50型の液晶ビジョンを買うようなあるいはそれ以上のものを買うような高い買い物ではなかったかと思う。カラーテレビの魅力が決断を促したのではないだろうか。
ちなみに新物好きの性格は祖父譲りなのか、父は他にも何か新しい器械が現れると金もないのに購入していた。そのころを前後するが、祖父が購入したらしい大きなオープンリール式のテープレコーダーを祖母の家で見たことがある。かなり、初期のものではなかっただろうか。今あれば稀少価値のある骨董品ではないかと思う。そんな祖父の姿をみてきたのであろう。父は職業として工業高校の機械科の教諭になっていた。自分も父の姿を見てきたので、今でも、新しいガジェットを見つけると、強い興味を覚えて可能なら手元におきたいなどと思ってしまうし、構造はどうなっているのかと調べてみたくなるのである。
話は戻るが、アジアで初めてのオリンピック開催は敗戦から立ち直っていった日本の底力を象徴するかの出来事で、テレビのニュースを通して東京では環状線高速道路の建設が急ピッチで進められているということが報道されていたし、至るところで外国からの来客を迎えることを前提に建設ラッシュが続いていたことを覚えている。
そのように世の中が変化してゆく中でも、自然の脅威というものは、それとは全く別問題として突然として、やってくる。人間が技術の粋をもって築きあげた建造物であったとしても、自然の猛威のまえには、ほとんど無力に等しい。
自分がこの時に体験したものは、『えびの大地震』と呼ばれるものであった。えびのの近くの京町という地域が震源地となる、直下型の大地震であった。マグニチュード7.9と記憶している。震度で5.8位だったと思う。
それは小学校での授業の最中に起こった。まず遠くから聞こえる爆発音から始まった。ドカーンという異音に驚いていると、地面が縦に小刻みに揺れ始め、急激にまるで機関銃でも撃った如くに、ババババババという爆音とともに地面も建物も揺れ、居ても立ってもおられないような状態になってしまった。
地震の時はまず机の下で身を守れと普段から指導は受けていたものの、振動があまりに激しくて、そんな余裕もないまま身をなるがままに任せているしかなかったというのが実際であった。そんな激しい揺れが収まると、先生が「皆、急いで外に出ろ」と叫んだ。その命令に従って大急ぎで外へ走っていった。校庭には大きな木が一本あったが、そこを避難場所として移動している途中、今度は波は横揺れとなり、地面がまるで横向きにどこまでもどこまでも移動してゆくのではないかという状況になった。地面が揺れるということがどれほど恐ろしいものなのか、肌身で感じた瞬間であった。足元は固定しているということを信じて、普段生活しているわけで、それが根本から崩れて行くときの動揺はどう表現したらよいのだろうか。絶望的ともいえる心境であった。
時間の経過からすれば、そんなに長い時間ではなかったのかもしれないが、その肌で感じた地震体験は、心の深い所にどうしようもなく刻まれている。