2010年9月29日水曜日

いもがら閑話⑧

 父親の転勤で移り住んだ新天地での生活は、小学校卒業までであった。親しく付き合っていた友人たちはそう沢山はいなかった。一人はI君といって地元の地主の家に生まれた子であった。生まれつき体の弱い子で、末っ子らしい甘えん坊ではあったが、お父さんは丸坊主の風格のある人で厳格な雰囲気があり、お母さんは小柄のやさしい人であった。お婆さんがいたが田舎のお婆さんらしく明るくてかわいらしい人であった。そんな家族を持ったI君であったのでなにかと理由をつけては彼の家を訪ねていった。
古い農家の建物は高台にあり、何か昔の田舎武士の家屋を思い起こさせるものであった。自分はそんなたたずまいが気に入っていたのであった。借家の我が家とは全く違った環境に、I君に会いに行っては、ひと時の楽しい時間を過ごしたものであった。当時は電話で遊びの予約をするなど考えることもできなかった。直接行って、縁側で「あそぼ~」と声をかけて誘うのである。不在だったり、何かの理由があると、家人が出てきて誘いを断るわけで、その時は他の友達を捜しにゆくことになる。
ある時いつものようにI君を訪ねて行くと不在だったので、近くの川原に出て見た。そこでは、当時『悪がき』と言われていた同級生の男の子が何人かの観衆を前に縄跳びをしていた。遠くから見ると太い縄かと思っていたが、近づいてみるとそれはニシキヘビであった。彼はヘビを縄跳びにしていたのであった。ヘビのうろこが飛び散り生臭いにおいがしていた。何とも野蛮で残酷な奴だと思ったが、気持が悪くてその場を去った。
 ところでI君のお母さんは広島からお嫁に来た人で、広島原爆の被爆者であった。彼の家を行き来しているうちに聞いた戦争や原爆の体験話は、子供心にも深く残っていったのであった。
戦争といえば、戦争の痕跡は、この田舎にも所々に残っている。防空壕あとは我らの秘密基地になっていた。そこが戦時中、爆撃を避けて人々が避難した場所であったこともあり、決して明るい場所ではなかった。防空壕あとが子どもの遊び場になっていた。そのうちの一つで親に隠れて二―ビー弾(火薬を爆発して遊ぶオモチャ)を大量に爆発させて大やけどをしたというような事件が発覚したことを思い出す。とにかく親の目の届かないところで起こる事件は結構多かったのではないだろうか。
特に男の子たちが生き残ってゆくには危険な環境が多かった。

2010年9月28日火曜日

いもがら閑話⑦

新天地での生活のエピソードは続く。竹林の中での遊びに飽きた時は、谷川がわれらの遊び場となった。親族の叔父から譲り受けた歴史物の子供用自転車が自分の移動手段であった。5分ほど走るとそこには渓流があった。大きな岩がごろごろあってその間を水が流れているような川である。
この川原での遊び方はもちろん渓流釣りというのもあるが、自分の場合あまり釣りには親しんでいない。そこでしたのは大きな岩を飛び移ってゆくという忍者遊びであった。岩と岩の間をジャンプして時に身を隠すそんなことを繰り返す。また時には石投げに挑戦をし、水面に石をすべらせてそのジャンプの回数を競うというものである。そういう経験は手や足腰を丈夫にする格好の訓練場であった。
ただ時には失敗をしでかすこともあった。岩から岩に跳び移るときに注意をしていないと岩苔で足を滑らすことがあるのだ。一度そんな体験があった。川に落ちて、着ていた服は全部びっしょり濡れてしまった。幸い流されて溺れはしなかったが、一歩間違えばどうなっていたことだろうか。濡れたまま家に帰れば、家の人にこっぴどく怒られるだろうと不安になり、川原で服が乾くまで裸になって待っていた。この時は何事もなかったようにして家に帰った。
夏休みの渓流での水泳は、毎年恒例であった。この渓流での水泳は水泳禁止区域というものを避ければ、学校でも許可されたものであった。しかしながら、事故というものは、どこでどう起こるかは分からないものである。
ほんの2mくらいの川幅しかない場所を自分は潜ったまま彼岸に渡ろうとした。川は流れが速く、すぐに渡れるであろうと思って挑戦したのであるが、結局流されてしまい、自分は水底に沈んでしまった。意識が次第に朦朧としていった。遠くに光がきらきらとしているのが見えた。その光の方に行こうとしているうちに、はっと目が覚めた。自分は川原の陸の部分にあおむけになっていて監視員から人工呼吸を受けて口から水をはきだしているのであった。
あのまま光の方に行っていたらどうなっていたのだろうか。死というものと生というものの狭間で自分はその時さ迷っていたのではなかろうか。

2010年9月27日月曜日

いもがら閑話⑥

 人が住むには決して良好とはいえない環境でのエピソードはさらに続く。
竹林に囲まれた周囲の環境はその付近に住む同年代の子供たちに格好の遊びの知恵を与えた。竹は多くの場合、子供らの遊び道具を作るための材料となった。我が家の子供らをみていると、ナイフを使って、鉛筆を上手に削るなどということが、なかなかできない。自分たちが小学生のころは、ナイフを使って物を作り出すというのは至極当然のことで、今時の子たちと違ってナイフは危険だから使わないなどという発想はあまりなかった。自分の指にはいつもナイフや竹でできた生傷があって、絆創膏を貼っていないときのほうが珍しかった。
 竹を使って紙玉鉄砲を作るのはとても楽しかった。質の良い竹を切りだし加工をする。竹の筒が、中に詰める新聞紙を水で溶かし球状にした弾にしっかりと密着し、2つの弾のあいだのシリンダーが圧力に十分耐えられる構造をどう作るか。これがポイントとなる。筒は長くするほど圧力があがり、弾はより遠くへと撃ちだされるが、シリンダーの部分が弱いと圧力で割れてしまうことになる。それでこの絶妙なバランスを得ると素晴らしい紙玉鉄砲が出来る。思考錯誤しながら、製作を重ねた。良いものが出来ると周りの子供たちには鼻高々となる。時には連発式紙玉鉄砲を作ったこともある。単発のものに較べて、銃撃戦になると連発式はとても有利であった。
 竹は竹馬の材料でもある。最近のスチール製の頑丈な竹馬とは違って、竹と縄を使って作る自家製のものである。足を乗せる台を固定するために思考錯誤したことをおぼえている。とにかくそこいらにある自然の材料を使って作るしかないのである。
 ある時竹ひごとバルサ材と紙を使ってグライダーの模型を作ったことがある。いよいよ完成し、試験飛行をする日を待った。当時夏から秋にかけては台風が頻繁に発生し、進路は南九州方面に集中し、時には台風の目が上陸するということがあった。
試験飛行の日は、まさにそんな日だった。重い雲で覆われ激しく吹き荒れた台風はあるときから急に静かになり上空に青空が広がった。まさに台風の目の中に突入したのであった。どうせ試験飛行するなら強い上昇気流の起こる瞬間が良いのではないかと思い、台風の目が通り過ぎるのを待った。
数分が過ぎたのだろうか。風はそれまでとは逆方向に急にふき始めた。今だと思い、セットしてあったグライダーを強く押し出した。グライダーは急速に上昇し、見事に木端微塵に破壊され、残骸が降って来たのであった。一瞬の出来事であった。実験とはこんなものだと思い無念の思いを噛みしめながら家に帰ったのであった。

2010年9月26日日曜日

いもがら閑話⑤

小学校3年になるころは、新天地での生活にも次第に慣れ親しんで来た。最初に引っ越しした借家は、3人の男の子をかかえた家庭には手狭であったので、1年もすると、少し広めの借家へと移った。
 自分としては、小学校に近かったので都合は良かったが、何とも不思議な構造をした借家であった。元々そこは、お茶を製造する工場を長屋のようにして区切り、人が住めるようにしたものであった。したがって、ちょうど羊羹を輪切りにしたような細長い作りで、すべての部屋が、一列に並び台所まで一直線になっていた。
元々工場であったので、2階は物置となっており、外の階段からしか中に入れなかったが、入ることは原則出来なかった。しかしながら、子供にとっては格好の探検スポットであり、ドアをこじ開けては、中に入り、化け物でも見つけるようなスリルを期待して、探検を続けた。
 周辺は竹林で覆われ、日当たりはあまり良くなかった。建物のある丘の上に続く狭い道路は、梅雨時期になると、いつも土が湿ってどろどろとなり、こともあろうに相当な数の大ミミズがはい回り、そこに車でも来ようものなら、轢かれて緑色の血液を流し、何とも不気味な場所となっていた。湿度の高い日の当らない場所というものは、不気味な生物が多く生息している。体長30センチにもなるような大ムカデが家の中に入ってくることもあったし、大きなクモがそれに負けじと、餌を求めて家の中に入ってくるような事態は一度や二度ではなかった。暗い台所の排水口でミミズのような、しかし頭が逆三角になっている気持ちの悪いぬるぬるした生物をみたこともある。あれはなんだったのだろうか。
 今考えると、とんでもなく生活環境の悪いところにいたのだと改めて思い出されるのだ。当時はエアコンなどという便利な器械を設置するなどという発想はなかった。エアコンは昨今の電気店の店頭にズラリとならんでいるよう代物ではなかった。どの家もあってせいぜい扇風機くらいしかなかった。したがって、我が家においても、例外ではなく、夏は古ぼけた扇風機か、うちわで暑さをしのぶというのが基本であった。虫が部屋に入ってくるのを防ぐのに、縁側の窓を開け放しにし、蚊帳を吊って、蚊取り線香をたく、そんな夏の風景が思いだされる。
 こういう環境にいたからとは簡単に言えないが、自分はいつも体の調子が悪く、不機嫌な時が多かったように思う。最悪だったのは、臀部に大きなオデキ(ネブと言っていた)ができて椅子に座ることが出来ないほど痛みが走っていた。その大きさはしまいには、臀部の左側全部がオデキで膨れ上がり、高熱を伴った。抗生物質が当時は出回っていなかったのだろうか。医者に行って切開なり、薬の投与をすれば、簡単に治っていたのかもしれないが、医者に行った記憶がない。何か『スイダシコ』と呼ばれるゼリー状の軟膏を付けた記憶はある。結局、腫れの峠を越えるまで待ち、1か月後くらいになると父が自分のオデキの周りを絞るようにして押してゆき、最後は口で吸って、どろどろした血膿を出してくれた。それが全部でてしまうと次にオデキの芯の部分が出てきた。家族はそれを見つけると「出てきた、出てきた」と大騒ぎだった。それはラードのような白い塊でこれが摘出されると、それまでの大きなオデキは急速に収縮して、数日後には治ってしまった。
なんとも気持ちの悪い体験であったが、そう誰でも体験するものではないだろう。おそまつ。

2010年9月25日土曜日

いもがら閑話④

田舎の小さな町での生活は、父親の転勤に伴い終焉を迎えた。そして小学2年生の出発は新天地にて始まった。県内での移動ではあったが、小さな子供にとっての環境の変化は、とても刺激的なものであった。
1年生のころに父親にせがんで、雑種の子犬を飼っていたが、その犬は転勤先の新居まで引っ越しの荷物と一緒に箱に入れてトラックで運んだ。引っ越し先に到着して持ってきた荷物をひも解くと子犬は猛ダッシュで飛び出してきた。余程箱の中は窮屈で外が恋しかったのかと思ったが、子犬は野原の中央にあった木の根っこの所まで必死で走ってゆくと長い長い小便をした。どうも箱の中にいた間は小便を相当我慢していたようだ。
けなげというか、潔癖というか、頑固というか。犬は飼い主に似るというが、そのころの自分はそうだったのだろうか。確かに何かにとらわれると、意固地になる性癖があったことを思い出す。
たとえば母が家族団欒の席で良かれと思って用意した、『すきやき』をどうしても拒み続けた。別になにか嫌いなものが入っているからとかいう理由ではなく、何かこの料理のことで意見があわなかったことがあった後のことであった。『すきやき』は当時決していつでもありつける料理ではなかったはずなのに、家族とは別個に決まって自分で卵焼きを作って食べていた。何故決まって卵焼きだったのか。野菜炒めではだめだったのか。その理由は自分でもわからなかった。
こうして子犬との新天地での生活が始まった。周辺は閑寂な住宅街であった。住宅地の一角にちいさな空地があり、そこは野良犬たちの格好の溜まり場であった。そこでの野良犬たちの影響を受けたのであろうか。この犬は成長とともに、性格がなにかイビツになっていった。神経質であり、他人を見ると牙をむけ、物を壊したり、引っぱり出したりして、近所の人々に白い眼で見られるようになった。
父は怒り、この犬は我が家から追放されることになった。山奥に連れて行って、置き去りにするという方法だ。追放しても何度やってもすぐに帰ってくるので、覚悟を決めた父は相当遠くまで行って捨ててきたと言っていたが、真相は分からない。とにかくある時からこの犬はいなくなってしまった。

2010年9月24日金曜日

いもがら閑話③

いもがら閑話③
 小学校1年生のころは何か大きな節目になっていたのだろうか。前回記述した火事の経験は壮絶であったが、直接わが身が傷つき、一歩間違えばそこで人生が終わるような体験というまでには至っていない。その点からすると今回紹介する体験は、まさに危機一髪というところであろう。
 秋になると、町の至るところから元気のよい子供たちの歓声、リズム感のある音楽そしてアナウンスが聞こえてくる。毎年、秋の恒例行事といえば運動会である。家族や隣人たちが総出で応援合戦や、飲食を楽しむ絶好の機会、それが運動会である。
 今は宮崎市では2学期制をとり小中学校は5月が運動会となってしまった。なにか拍子抜けしてしまうことしきりであるが、以前は運動会イコール秋と相場は決まっていた。ちなみに今年(2010年)は口蹄疫の災禍が宮崎県に降りかかり、人が集まるような行事は全部キャンセルとなってしまった。それにともない5月の運動会は中止となっている。それで今年は終息宣言後の9月10月が運動会の月となっている。皮肉な話である。
 さて、時間を巻き戻し、小学校1年生のころの自分に降りかかった災禍は、小学校での体育の授業終了時に起こっている。
その時の現場状況は、正確には覚えていない。運動会の練習でもしていたのだろうか。結構足が速かったこともあり、徒走競争の勝利の余韻を残しながら、自分は教室に戻っていった。自分が何故そこにいたのかは今でも不思議に思う。状況は、当時6年生の男子生徒2人が喧嘩をしていて、20mほど離れたところから一人の生徒が、パイプの管を相手に投げつけた。その真ん中をこともあろうに、自分が通ったわけであるから、見事にそのパイプは自分の頭に命中、一瞬の出来事であるが、そこいらは血の海と化したわけである。
自分は頭を押さえながら、先のほうで会話に夢中になっている担任の女の先生のところにふらふらしながら歩いて行き、後ろから「先生!」と声をかけた。その先生はうるさい子が話しを邪魔しにきたと、見もせずに手を振り払ったのである。「違うんです!」ともう一度声をかけて、先生がこちらを振り向いて「ぎゃー」と叫んだところまでは、覚えているが、あとは記憶にない。
気がつくと、自分は保健室なのか、病院なのか、割れた頭を縫合手術していた。パイプは左目の3センチほど上に突き刺さったものでちょっとずれれば、命はなかったかもしれないということであった。

 

2010年9月23日木曜日

いもがら閑話②

小学1年生の時、住んでいた小さな町は大火事となり、町のほぼ三分の一にあたる中心部が焼き落ちた。古い繁華街の道路はとても狭く以前からすでに問題になっていた街並であったが、案の定一軒の飲み屋の火の不始末は、瞬く間に町を火で覆い尽くした。野次馬が多くいて、消防車が現地に到着するのが遅れたことも大火事になった原因であったそうだ。
そのころの我が家は町の繁華街のはずれにあった。この火事の時、火の勢いは小さな野原をはさんだ材木工場のところにまで到達した。火の勢いは全く衰える様子はなかった。
危険を察したわが家族は避難をすることになった。瞬く間の事で、着の身着のままで飛び出したわが家族であった。そのとき家から飛び出た自分は、たくさんの大きな火の球が暗い夜空に勢いよく舞い上がる様子を見た。体験したことのないその光景はあまりにも壮絶であり、恐怖を感ずるものであったので、数十年を過ぎた今でも自分の瞼の裏にしっかりと焼き付いている。
風上の少し遠くにあった公民館に避難している間に火の勢いは鎮まり、わが家族は家屋も含めて災禍からまぬがれることができた。何故、あれほど大きな火事であったのに我が家の前で鎮火したのは今となっては何らかの奇跡でも起こったのではないかと思えるほどである。
この火事のあった時に、自分は人間の根性の一面を見せつけられる体験をした。我が家に隣接した家はバス会社に働く人であったが、この火事で隣人はバスを家の横につけ、家財道具を必死で詰め込んでいた。火事の勢いに狼狽したわが母は咄嗟に自分をそのバスに乗せながら叫んだ。「この子だけでも助けてください。お願いします」と。しかし、その隣人は「そんな余裕はない。出てゆけ。」といいながら、自分を押し返したのであった。自分はなされるがままに振舞ったのであるが、心には何らかの違和感が走ったのである。日頃の姿と違うその隣人に、人間はこうも変わるのものなのかと唖然として見ていたのである。複雑な事情がもしかしたらあったのかもしれないが、子供に分かる術はなかった。
昔よく言われた怖いものの代名詞、地震、雷、火事、おやじのうちの一つがこの時自分に降りかかってきたのであった。

2010年9月22日水曜日

いもがら閑話①

 年齢が重なると先の話を作り出すという作業が億劫になる傾向を避けられない。
 自分の可能性を追求してゆくというより、子供たちのこと、周りの人々のこと、社会や世界のこととその焦点は、本人の探求の世界から次第に遠ざかってゆくことで、なにか気を紛らわせているような自分の姿を発見してしまう。
 それだけ心が広いのかというと必ずしもそうではないのではないか。自分の中に訪ねて行っても出てくるものは、過去の体験からくる結果でしかなく、それは次の挑戦をしてゆくための踏み台となるような盤石なる基台ではない。
 それでは青年のときに挑戦をするにふさわしい準備があったのか。むしろ何もないことが、挑戦するにあたっての刺激であって、何かがあってなしていったものではなかった。経験が次の道を開拓するというよりは、浅はかさ、無知、無思考が無謀さに拍車をかけ今の基礎とつながっていった。
 運が良ければ、その結果は記念碑として残るけれど、どちらかというと後悔という名の墓石に名前を刻み続けたのが青春の実体ではなかったのか。ちなみに思春期を迎えた息子の姿は別に誰かの姿ではなく、自分自身の反映ではないかと思う。それにしても何を考えているのか、いや何も考えていないのか。いずれにしても自分の思春期を年長者が見たら同じような感想を持ってしまうことであろう。それが歴史は繰り返すというパターンの原型かもしれない。 
 こうやって考えてみると、不確かな踏み台の上に立ちながら、次の階へ昇ろうという試みが連続して綴られていったのが、歴史の本質ではないかというのは、極論と簡単には言い切れないのではないだろうか。太古の人々から現代人にいたるまで人間性の本質は時間の流れとともにどこまで進歩したといえるのだろうか。
 人が嬉しかったり、悲しかったりする感情の世界において、どのような違いがあるというのだろうか。1000年前の人と現代人では嬉しいとか悲しいとかいう感情の基本が変わったのであろうか。昔の人に嬉しいという感情悲しいという感情はなかったとか、そんなことはありえないでしょう。ただ病気となって感情を失うという可能性はあるけれど、それは昔も今もかわらない例外でしょう。
 もちろん、人の住む環境的要因は時代の流れの中で科学技術の進展とともに著しい変化をもたらしてきたのは事実だ。それを利用する人間が環境を良くして生活が改善していったということはありえるけれど、人間そのものの感情は基本的に変わるものではないでしょう。人は悲しいときには、泣くし、嬉しいときには笑う、苦しいときには、苦痛を感じるし、楽な時には快さをもつであろう。
 こうして、人間の感情というものが、時間性や空間性(民族的相異や国民的相異など)にかかわらず共通するものではないのか。そういえば動物にも似たような感情があるなぁ。こうして世界は感情に満ちているのだなぁ。
 自分の人生行路はほかの誰かとどこがどう違うのか。体験は異なるとしてもそれに臨んで反応する人は多少の違いはあるだろうが同じような感情パターンを執ってしまう。そしてそれが記憶として保存される。その蓄積が人生の形だ。
 人生は想念の渦だ。その中で痛みに直面した時、ある者はその刺激が強すぎて持ちこたえることが出来ずに息途絶えてしまうこともあるし、ある者はその刺激を避けて逃避することもある。もちろんそれに耐え消化できるものは人生を全うしたものであろう。それでも体験に直面した時、持つ感情というものは、そうかわるものではない。消化するかできないかの違いで終焉を迎えるかどうかが決定する。
 自分においても振り返れば人生の分岐点にさしかかり、選択を迫られる時は一度や二度ではない。そこになんらかの要因が働いて、今の選択肢にしたがっている。選択肢がかわり、体験が変わったとしてもおそらく自分は自分であってそれ以上でもそれ以下でもない。
 そんな自分がこれから記録しょうとすることは、果たしてなんのためなのか。ある種の自己顕示欲(人の欲望にありがちな)なのであろうか。それとも、それ以外の何かがそうさせているのか。いずれにしても、このことは自分の心つまりは嬉しかったり、悲しかったり、そんな感情がベースにあって、それを表現をしょうとしていることはそれを痕跡としてとどめておきたいとする自認識からくるものであろう。
 いままで、何か機会があれば、こんな試みもしてみたらと思うことは度々あったけれど、具体的に話を進めていったことはあまりなかった。今回これを進めてゆくのは、自分自身が先に述べたように未来へ意識を向けて行く意欲より、過去やあるいは自分の周辺に思いを寄せて行くことの方が、何か自然体でいることができる道のような気もするからである。そしてそれが平穏な心で居続けることができるようなので、ここに自分が体験してきたことを綴ってみたり、私の周りのことを覗き見ながら、勝手に自分の思ったことを書き下ろしてみることにしょう。
 また、自分は九州の自然に育った。もちろん大自然の中でなどというような大それた言い方は出来ないが、内の子供たちが団地の中で育ってゆきながら体験する自然環境よりは少なくともワイルドで危険に満ちてスリルのある生活環境であった。今の子供らにそんな生活をさせることは、残念ながら九州にいても制限が多くて、昔のようではない。残念である。(もちろん時には死ぬか生きるかの瀬戸際の体験もあるので、同じ体験をしろとも言い難いのではあるが)
 そこで、ここではついでに、自分が体験してきた青少年期の出来事なども書きとめて、せめて子どもたちに残しておくことも考えている。自分は10代までは九州での生活をしていたが、20代以降は首都圏を中心に時には関西圏ときには東北や北陸あるいは中部地域にまで足をのばし、残念ながらまだ足を踏み入れていないところは北海道だけで、ほかの地域(四国、九州そして主な島々まで)は制覇している。また30代になると渡米することになり、なんだかんだしているうちに7年の歳月をその地で生活することになる。その地でも大陸横断そして縦断をするなどした。そんな生活の中で体験していったことごとも記録に残しておこう。
 さらに自分の同世代あるいはもう少し古い世代いわゆる団塊の世代という人々が、戦後高度成長期の日本の立役者となってきたわけである。今の日本はわれらが良かれ悪しかれ形づくってきた当事者だ。 日本を含むこれからの世界は願わくは、もう少し平安である社会であったらと思う。だからそんな願いも込めて、小言も言わなけりゃならないのかな。なにか言い続けていったら変化が起こるかもしれない。