2010年9月26日日曜日

いもがら閑話⑤

小学校3年になるころは、新天地での生活にも次第に慣れ親しんで来た。最初に引っ越しした借家は、3人の男の子をかかえた家庭には手狭であったので、1年もすると、少し広めの借家へと移った。
 自分としては、小学校に近かったので都合は良かったが、何とも不思議な構造をした借家であった。元々そこは、お茶を製造する工場を長屋のようにして区切り、人が住めるようにしたものであった。したがって、ちょうど羊羹を輪切りにしたような細長い作りで、すべての部屋が、一列に並び台所まで一直線になっていた。
元々工場であったので、2階は物置となっており、外の階段からしか中に入れなかったが、入ることは原則出来なかった。しかしながら、子供にとっては格好の探検スポットであり、ドアをこじ開けては、中に入り、化け物でも見つけるようなスリルを期待して、探検を続けた。
 周辺は竹林で覆われ、日当たりはあまり良くなかった。建物のある丘の上に続く狭い道路は、梅雨時期になると、いつも土が湿ってどろどろとなり、こともあろうに相当な数の大ミミズがはい回り、そこに車でも来ようものなら、轢かれて緑色の血液を流し、何とも不気味な場所となっていた。湿度の高い日の当らない場所というものは、不気味な生物が多く生息している。体長30センチにもなるような大ムカデが家の中に入ってくることもあったし、大きなクモがそれに負けじと、餌を求めて家の中に入ってくるような事態は一度や二度ではなかった。暗い台所の排水口でミミズのような、しかし頭が逆三角になっている気持ちの悪いぬるぬるした生物をみたこともある。あれはなんだったのだろうか。
 今考えると、とんでもなく生活環境の悪いところにいたのだと改めて思い出されるのだ。当時はエアコンなどという便利な器械を設置するなどという発想はなかった。エアコンは昨今の電気店の店頭にズラリとならんでいるよう代物ではなかった。どの家もあってせいぜい扇風機くらいしかなかった。したがって、我が家においても、例外ではなく、夏は古ぼけた扇風機か、うちわで暑さをしのぶというのが基本であった。虫が部屋に入ってくるのを防ぐのに、縁側の窓を開け放しにし、蚊帳を吊って、蚊取り線香をたく、そんな夏の風景が思いだされる。
 こういう環境にいたからとは簡単に言えないが、自分はいつも体の調子が悪く、不機嫌な時が多かったように思う。最悪だったのは、臀部に大きなオデキ(ネブと言っていた)ができて椅子に座ることが出来ないほど痛みが走っていた。その大きさはしまいには、臀部の左側全部がオデキで膨れ上がり、高熱を伴った。抗生物質が当時は出回っていなかったのだろうか。医者に行って切開なり、薬の投与をすれば、簡単に治っていたのかもしれないが、医者に行った記憶がない。何か『スイダシコ』と呼ばれるゼリー状の軟膏を付けた記憶はある。結局、腫れの峠を越えるまで待ち、1か月後くらいになると父が自分のオデキの周りを絞るようにして押してゆき、最後は口で吸って、どろどろした血膿を出してくれた。それが全部でてしまうと次にオデキの芯の部分が出てきた。家族はそれを見つけると「出てきた、出てきた」と大騒ぎだった。それはラードのような白い塊でこれが摘出されると、それまでの大きなオデキは急速に収縮して、数日後には治ってしまった。
なんとも気持ちの悪い体験であったが、そう誰でも体験するものではないだろう。おそまつ。

0 件のコメント:

コメントを投稿