2010年10月2日土曜日

いもがら閑話⑩

 小学校時代に親しくしていたもう一人の子供がいた。友達としてはなんとなく少し距離があったので、今思うに級友という程度の付き合いだったのかもしれない。彼は医者の息子であった。誕生日が同じで、左ききであることも共通点であった。
ど田舎でもあり、世の中全体がまだ高度成長期にあたり、貧しさはまだ一般的なものであった。そのような時代にあって彼の家は両親とも医者で裕福であった。家には女中さんも居た。普段はその女中さんが彼や家のことを世話していたようだ。
 彼は近くの子供らと外で遊んでいて、3時になると「おやつですよ。」とその女中さんに呼ばれて帰っていった。連れの子供らが多くいると彼が手作りのおやつを家で食べている間、駄菓子の袋が配られていた。子供らはそれを目当てに遊びにくるという節もあった。 
 彼は親から英才教育を受けていたようだ。学校の音楽室では、彼のピアノの生演奏を良く聞いていた。ピアノの演奏は自分の生活とあまりにかけ離れていて、関心はするものの別次元のこととして見ていた。
絵画も先生について勉強していたようだ。ある時彼と一緒に外で写生する機会があった。題材は一本の木を描くというものであった。二人で同じテーマに臨んでいたのであるが、近くを通ったおじさんが彼の絵のタッチと自分の絵のタッチの違いを見比べて、彼の絵を賞賛するわけで、自分は心の中で木はゴツゴツとして豪快なのがいいのだと自分なりの理屈を作ってその場を凌いでいた。しかし実際は彼のように絵が描けたらいいのにという羨望を持っていた。当時の我が家の経済状態は教師をしていた父の安月給でなんとかなりたっていたものであって、習い事をするなどという発想そのものがなかった。
彼には色々な面で適わないと思っていながらも一緒に遊ぶ機会は多かった。一つ自分が優っているなと思ったのは体力であった。野を駆け回っていた自分は同年代の子と比較すれば格段の運動能力に優っていたように思う。瞬発力、走力、腕力等周りから一目おかれるような水準があったようだ。一面彼はひ弱なところがあって、そういうことでお互いは補い合っていたのではないかなと勝手に思っている。
中学になると父の転勤があって引越しをしたこともあり、付き合いは途切れてしまったが、彼はその後医学部に進み家業を継いだようである。


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